資本主義 対 信用主義?(WIP)
「2030年の世界地図帳」落合陽一 著
を、読みました。
インターネットがもたらした中抜けの構造が市民を開放したものの、巨大な資本家たちにも、革命的なパワーをもたらしたようです。
現代において、テクノロジーは宗教であり、価値であり、世の中のルールを決定するものとなっています。
そしてGAFAMなどの富める者からの施しによって、貧困格差が埋められているように演出されていますが、日本の政治家が自分の選挙基盤を強化するために政策を打ち出す程度の話、いや政治家の方がまだ多少なりとも監視の仕組みがあるため、この資本家たちよりはマシかもしれません。
このあたり、こちらの記事がおもしろかったです。
落合さんといえば、ホリエモンと本を書いています。
「10年後の仕事図鑑」堀江貴文×落合陽一 著
資本家であるホリエモンが、これからは「信用」が大事と言っています。一方で落合さんは、前出の著書で、現代においてさらに強力なツールとなった「貨幣」について何度も警鐘をならしていたような気がします。
ホリエモンにも、未来の仕事について落合さんと同じことは見えているような気がしますが、なぜ「信用」というカウンター貨幣的なものを提示しているのでしょうか。
今後、中間層の労働者はAIによって効率化が図られ人がやるべき仕事量が減り、そのために給料は減り、結局のところ一人でダブルワークをせざるを得ない状況になっていくような気がします。たぶん1社では、とても教育費などの貧困のループから抜け出すための支出が賄えなくなる。
このとき、個人で生きていくための価値が「信用」ということになるのでしょうか。貨幣のために生きるにあらず、信用を得るために生きる。次の社会は、資本主義 VS 信用主義になったりするのでしょうか。
テクノロジーが正義として掲げるものはなんなのか。結局は、資本なのであれば、今リベラルとかいっているクールを装うIT界隈の人たちも、所詮は外見が違うだけで昭和のダサい遺物たちと同じですね。
しかし、信用で生きていけるかどうか。
日本は、アメリカと違って勝利こそが人生の価値といった極端な思考はないように思います。地球温暖化への取り組みでも、ヨーロッパ勢が使用を制限して二酸化炭素を減らしていることに対し、アメリカはイノベーションによってガンガン使いながらも減らす方法をみつけるべきだ、と発言しているとか。これはGAFAMがいうところの、億万長者になってから、貧民に施せばプラマイゼロだよね、という考え方と同じ気がします。
現在の日本といえば、勝利よりも平等、偏った形での公平が重んじられています。この気質がいつからなのか、私は不勉強でわからないのですが、信用主義が根付く土壌はあるかもしれません。いまは言語障壁があるので、これが薄い膜のように一定はバリアシールドとして活躍してくれる気もします。
結局、日本が誇れるのは、勝利には向かないけれど、こういった横並びの価値観や文化、美的センスではないかと最近思うようになりました。食料自給率はかなり低いので我ら自給自足はできないのですが、極東からはジャパニーズ・デジタルとして、禅などを輸出して生きていくのはどうですかね。
「信用」なのかはわかりませんが、資本主義だけではこの先多くの日本人が不幸になることは確実かと思われます。ホリエモンが考えるホントのところをどこかでお話してくれたらうれしいなと思った今日このごろです。