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盛岡藩雑書・藩政日誌の現代語訳【1677年8月20日】


南部利幹と重信の予定

中日 晴
御三階=て今日護摩御祈禱永福寺執行之、辰刻始申ノ刻迄、昼 殿様御出被遊永福寺御対面、兵助・七左衛門罷出、御初尾永福寺へ金五百疋、同宿四人へ同百疋宛

延宝5年8月20日 晴

【御三階の儀について】
今日は、永福寺において、
護摩祈祷が執り行われました。
若殿(南部利幹)の体調が良くなるように。

辰の刻(午前8時ごろ)に始まり、
申の刻(午後16時ごろ)まで続きました。

昼には殿様(南部重信)が
永福寺へお出ましになり、
(僧侶と)御対面されました。

この日記担当者でもある
「兵助」と「七左衛門」が参上し、
永福寺へ御初尾(寄進)として
金五百疋を納めました。
(現代の価値で 16〜30万くらい)

また、同宿(共に勤める僧侶)四人にも、
それぞれ金百疋ずつ下賜されました。(あげた)
(現代の価値で 3〜6万くらい)


若殿と殿様の予定

御二階=て東福寺供養法御祈禱執行、巳ノ刻より始未ノ下刻迄、 殿様昼御出御対面、御初尾金五百疋、同宿老人へ同百疋鹿角境目之義同所御百性共=被仰付事

【御二階の儀について】
今日は、東福寺において
供養法と御祈祷が執り行われました。

2025年の東福寺

巳の刻(午前10時頃)より始まり、
未の下刻(午後2時頃)まで続きました。

昼には、殿様(南部重信)が
東福寺へお出ましになり、
(僧侶と)御対面されました。

御初尾として金五百疋を納め、
また、同宿の老人(僧侶)にも
それぞれ百疋ずつ下賜された。(あげた)

さらに、
鹿角(秋田県)の境目に関する件についても、
当地の百姓たちに命令が下されました。


百姓は領地外で草刈りしないで

今度従 公儀、鹿角論山境目以 御検使被 仰付候条、自今已後境塚ヲ越秋田領へ入、草木堅剪取不申様=御百性共=急度申渡置候様=と、野々村宇右衛門被仰付、鹿角御代官小枝指清兵衛差添、今日鹿角へ被遣札

今度、公儀(幕府)から
鹿角の論山(領地争いのある山)の境目について、
御検使(幕府の検査役)が
派遣されることが命じられました。

したがって、
今後は、境塚(国境を示す塚)を越えて
秋田領内へ入り、
草木を勝手に刈り取ることのないよう、
百姓たちに厳重に申し渡しておくように。

この件について、
「野々村宇右衛門」へ命じ、
鹿角の御代官である「小枝指清兵衛」を同行させ、本日、鹿角へ通達の札を送りました。



幕府からの命令箇条

従細公議様、今度有境目被仰付候通堅相守、御額を超、草木切取申間敷候、是ハ鹿角村之内=立ル写札御公儀、今度御堺日被仰付候通堅相守、御境目を越、草木尊取申ましき事札此山へ入、何木によらす立木一切勢取申間敷候、附近所之野火通申間敷候事右二枚ハ鹿角立菱山・尾去小山、此両所=立ル写右之通札三ヶ所=相立、札之面御百性共急度相守候様=可申付候旨、御代官清兵衛=申渡、下書相渡ス、出石源兵衛・臼井仁右衛門も登城、此旨奉ル、因数右境目近所=知行持之侍中へも、銘々百性共=自今日後秋田領〈、塚踏越入籠、木草一切剪取不申候様=急度申付候得 、御横目穴沢朵女 以申波之

幕府より、
今度の境目(領地の境界)について
指示がありました。厳重に守りましょう。

1
境界の額(標識)を越えて、
草木を勝手に切り取ることは禁止する。
この指示は鹿角村内に掲示されました。

2
幕府から正式に
境界を定める日が命じられた通り、
厳重に守ること。

3
付近で野火を起こすことも禁じる。


この2枚の札は、
鹿角の立菱山と尾去小山の2か所に立てます。

2025年の立菱山 付近(岩手県晴山)

さらに、この内容の札を3か所に掲示し、
百姓たちが厳守するように命じること。

2025年の尾去小山 付近(岩手九戸)

この旨を鹿角の御代官「清兵衛」が申し渡し、
下書きを作成して渡します。

「出石源兵衛」「臼井仁右衛門」も登城し、
この指示を伝えます。

なお、この境目付近に
知行を持つ侍中(武士)にも、
それぞれの百姓たちへ、
『今後、秋田領の塚を踏み越えて入ることや、木や草を一切採取しないように』
厳重に申し渡すこと。

また、御横目(監視役)の穴沢氏を通じて、
この件が正式に伝えられました。



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