キナリ杯に参加し受賞した思い。そして最近のこと
岸田奈美さんが主催したキナリ杯に応募し、なんと受賞した。結果を知ったときは本当にびっくりし、そしてとても嬉しかった。
解像度低い表現だがそれが本音である。
キナリ杯の募集要項を見たとき、間違いなく応募が殺到するだろうし、何しろ岸田さん自身が「面白い」と感じるものが対象という時点でこれは私には書けないと諦めていた。まず岸田さんがどういうものを面白いと思うのかがわからなかった。また現在約450作品を公開しているがnoteのおすすめに選ばれたことがほとんど無い。と言いながら普段は書きたいことを好きに書いているので自身の作品が「おすすめ」に選ばれないということに関しては悲観していないが、応募することを考えると少し考えてしまう。
また、そのころちょうど書くことに関して悩んでいたころだった。書くことが無いとか書くことの意味とかそういうことではなく、ただ単に書く体力が無くなっていた。仕事して家に帰るとすでに疲れている。ただのいいわけに過ぎない。久しぶりに書こうとすると「いいもの」を書かなくてはいけないような気がする。頻繁に書いていた頃はクオリティを全く考えずに書きたいことを書いており、それがいいことかどうかは別として素直な感情が表現されていたと思う。
どこか「キナリ杯」のことは気になっていた。受賞したいとかそういうことより「面白い」というのはどういうことか気になっていた。そもそも「面白い」が自分の中でふわっとしていた。
だから面白いものを書こうとしても何も書けない。
まずはキナリ杯のタグがついた応募作品を読もうと思った。クオリティが高いのはもちろんであるが、一つ一つの作品は暑苦しいくらいの「こだわり力」を感じた。暑苦しいという言葉は決して否定ではなく、私の好きな松岡修造(敬称略)を思わせるような感じというとわかりやすいかもしれない。
私にはその「こだわり力」というものは持っていなかったし、探そうとしていなかった。私の辞書には集中、熱中するという言葉が無いこためか、普段の私の文章は起伏が少なく淡々としていると言われることが多かった。
淡々としている文章については「それがいい」と言ってくれる方もいるが「面白い」には程遠い。また三つ子の魂というくらいであり今さら何かに熱中するといっても難しい。そんな私にできることは自分をよく見せようと格好つけていた部分を捨てることなのかもしれないと思った。
ということをトイレの中で考えていて、まさしく思いついたというか、現場でおきていたことはこれだった。
今までの私にはないテーマで、しかもかなり赤裸々に書いた。そして書いてからも公開してよいのか相当悩んだが、これをキナリ杯に応募すると決めた。受賞とか関係なかった。
私の中ではやり切った感があった。
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こう言った記事というのは案外と書けない。自分と向き合う必要がありそれが苦手なんだろうと思う。真正面から見ると粗が見えてしまう。その粗を認めたくない。
また今書けない時期が来ている。
なんとなく燃え尽き症候群のような感じがする。そして先に書いた体力のこともあるがそう言った変なプライドが出てきたような気がする。今それを打開するためのきっかけを探している。
粗があるから面白い。
この記事を書いたことで向き合って書くことができるような気がした。
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そんなキナリ杯の受賞作品が掲載された電子書籍が発売になりました。こんなこと人生初です。売り上げは来年度のキナリ杯の賞金と運営となるとのこと。内容をページ数も圧巻です。
関わった皆様に感謝いたします。