魔法の力

はじめに

「魔法の力」とは自動車である。この意味がご理解頂ける方は以下の文章を「何か自分の知らないことがないか」と気にしながら流し読みして頂ければそれでよい(何かひとつでも収穫があれば幸いである)。そうでない方にはご自由にお読み頂ければそれでよい。元来読むという行為は自由である。書かれた内容の意味するところを共有できず、他者の責任にできず、ただ自分ひとりがすべてを引き受けるのであれば。

これより筆者は、最近は「歴史寓話」と呼ぶことの多いそれにおける、「企て」のひとつの事例について書き進めていく。「企て」とは、筆者による論文「手塚マンガの風刺性を検証する――『地底国の怪人』の場合――」のなかで提示した仮説、「戦後日本にとって重要な歴史解釈・歴史認識や一定期間・範囲の国際・国内情勢をプロット化し、そこに登場する個人・各組織・諸集団やそれらに内在する諸特徴をキャラクター化し、それらを偶然として退けられてしまう可能性を排除するべく(物語内外問わず)様々な手法によって歴史や寓意と作品との関連性に向けて鑑賞者への注意喚起を企てつつ、物語全体を寓意として設計・解釈・構成する試み」の一部にある、「偶然として退けられてしまう可能性を排除するべく(物語内外問わず)様々な手法によって歴史や寓意と作品との関連性に向けて鑑賞者への注意喚起」の「企て」である。それによって作品は歴史や寓意と接続され、作者はその意図するところをある枠内に保持し、確立した手法として次第に変遷を遂げていったと考えられる。ゆえにそれは特筆すべき1要素として、論ずる価値があるのではないか。そうした事情が本稿の執筆理由である。

具体的には、一般に魔女っ子もの・魔法少女ものと呼び習わされているジャンルに端を発するある特殊なタイプの「注意喚起の企て」が、どのような発生、展開、変遷を遂げていったか、その継時的現象を追跡し、その特徴や性質、効果について記述する。本稿では漫画、アニメ、小説など複数のメディアを取り扱うが決して網羅的なものを目指したものではなく、ある視座から眺めやることで立ち現れる「モチーフが描き出す1本の軸」と、それが浮かび上がらせる物語文化史のひとつの筋道を浮き彫りにし、そうした軸として特定の機能を果たす諸要素を説明する概念を提出することを目的としている。そして、それらの先端は現在に繋がっている。

「『魔法の力』とは自動車である」。ではまずその認識に向けて、次にその向こう側に向かって、読み進めて頂きたい、というのが筆者の意図である。無論無視して頂いても構わない。

分析

まず事の発端について経緯を確認する前に、ジャンルの先行研究について少し触れておこう。傾向としては魔女っ子もの・魔法少女ものというジャンルを批評・研究する場合、アニメというメディアで対象範囲を制限しているケースが多く見られるが、筆者はメディア横断的な「モチーフ史」とでも呼ぶべきものを志向しているため、この方法は取らず、「魔法」よりむしろ「自動車」を軸に据えて論じていく。しかしながらその起源が魔女っ子もの・魔法少女ものにあり、だからこそ「自動車」もその周囲にしばしば顔を見せるため、以後の記述においても特に「魔法」を大きく離れることはない。とは言っても必要とあれば「魔法」から離れることを躊躇わないのだが。

もうひとつの理由となるのは、その起源となる事象について精密に観察するとき、何よりもまず漫画のアニメ化という過程に踏み込まざるを得ず、放映されたアニメ作品以前の、放映に至る顛末についての記述が不可避であり、その漫画-アニメ間の相互関係を提示するという都合上、アニメ論という体裁を放棄することを余儀なくされたという事情である。

では、始めよう。多くの魔女っ子もの・魔法少女ものアニメ論では『魔法使いサリー』がこのジャンルにおける最初の作品であるとされているが、漫画版では赤塚不二夫『ひみつのアッコちゃん』(以下『アッコ』と省略す)が先行している。その後、横山光輝による漫画版『魔法使いサリー』(以下『サリー』と省略す)の連載が始まり、『サリー』、『アッコ』の順でアニメ化した。『アッコ』、『サリー』は共に歴史寓話であり、(註1)よってこのジャンルは成立と同時に歴史寓話として始まったとも言えるだろう。

ここで、『サリー』についての有名な挿話に触れねばならない。元々作品タイトルは『魔法使いサニー』であったが、アニメ化の準備を進めるうちに日産自動車が「サニー」を発表したため商標登録の問題を解決しようと出向いたところ、実際に「サニー」の商標を登録しているのはソニーであることがわかり、そちらから許可がおりず、関連商品展開が不可能となってしまうため、急遽タイトル及び主人公の名称を変更することになったという。(註2)

ここで注視すべき点は、後に一大ジャンルとなる魔女っ子もの・魔法少女ものアニメのその開始時にソニーが許可を出さなかったという点ではない。商標登録問題にもタイトルと主人公の名前の変更にも本来関わりないはずの日産「サニー」が、この一件以降、魔法と自動車を接続してしまったという事実である。「サニー」は日の丸を連想させる名称であり、(註3)その名称を持ちながら本来無関係な日産「サニー」が自動車であったことがアクロバティックなイメージによる飛躍した文脈の接続を呼び寄せ、日本の寓意としてのキャラクター名と歴史寓話としての作品名の同時変更という衝撃が、自動車を「注意喚起の企て」に使用可能なモチーフとして成立させたのであろう。

作品にとって重要なモチーフである「魔法」が働いたわけではないのだろうが、実際はソニーとの媒介としての役割しかなかったはずの自動車会社の商品名が、このような事例をきっかけに「注意喚起の企て」として導入されていったことは、当時のアニメを含めた様々な社会状況が輻輳したことによって生み出された、貴重な偶然であったとは考えられないだろうか。

そしてこれ以降、自動車名及び自動車にまつわるものが「注意喚起の企て」として機能していく様子が観察できる。「文学作品は、新刊であっても、情報上の真空の中に絶対的に新しいものとして現われるのではなく、あらかじめその公衆を、広告や、公然非公然の信号や、なじみのない指標、あるいは暗黙の指示によって、全く一定の受容をするように用意させている。その作品は、すでに読んだものの記憶を呼びさまし、読者に一定の情緒を起こさせ」ると、(註4)また「新しいテクストは、読者(聴き手)に対して、それより前のテクストで親しんでいた、さまざまな期待とルールの地平を呼びおこす。次いでその期待とルールは変異型を与えられ、修正され、変更され、あるいはまた単に再生産されるのである。変化と修正は活動範囲を規定し、変更と再生産はジャンル構造の限界を規定する」(註5)とハンス・ロベルト・ヤウスが述べたように、「注意喚起の企て」に関しても、性質の異なる複数の事前情報の作用により育まれた「期待」と想起される「ルール」は「変化」もしくは「再生産」され、(註6)「変化と修正は活動範囲を規定し、変更と再生産はジャンル構造の限界を規定する」ものと推測できる。

『機動戦士Zガンダム』『機動戦士ガンダムZZ』に登場する多くの「マークⅡ」や「Z」ガンダム、荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』の「スピードワゴン」、CLAMP『魔法騎士レイアース』『魔法騎士レイアース2』に登場する多数の固有名詞、(註7)『新世紀エヴァンゲリオン』の惣流・「アスカ」・「ラングレー」、平野耕太『HELLSING』の「インテグラ」、深見真『拷問魔法少女ドゥームズデイあやね』の「セリカ」、ちょぼらうにょぽみ『あいまいみー』の魔法少女「アクア」マーガレットなど、(註8)自動車名による記号・意味論的操作はヴァリエーションを増大しその操作域を拡大させつつ、(註9)現在も尚新たな展開の契機を迎えていると考えられる。(註10)

以上を踏まえ、自覚の有無にかかわらず、歴史寓話(もしくはその源泉たる歴史)そのもの、またはそれ同様あるいは類似の構造・展開を持つ創造物及びその諸要素に基づく「注意喚起の企て」のことを「展開・文脈上の刻印」と呼ぶことにする。これは先行作・他作品やその要素を引用することによる「企て」を説明するための概念である。つまり先行作や既に使用された手法が文脈・前提となって(自作の作者ともなる)受け手の読解・解釈に影響を与え、また受け手がそのような影響を受けることを意識して作者が制作時の諸基準を予期的に立案することもありうるのである。そのような「生産と受容の相互浸透」(註11)プロセスのなかで必然的に「刻印の広範化」が引き起こされ、制作側はより多くの選択肢を得ることとなるのだろう。(註12)

おわりに

本稿公開に至る作業中、GHQ占領下の日本で手塚が始めたとみられる歴史寓話という方法が、1962年には赤塚に、66年には横山に採用されていることが確認できた。(註13)またその後の展開を考慮すると、歴史寓話という方法は決して手塚ひとりの専有技術ではなく何かしらの情報伝播経路によって伝達され拡散されていったものと推察できるとわかった。これは歴史寓話史編纂の可能性を示すものであり、筆者は大変な興味と関心の視線を向けざるを得ないが、残念ながら手塚・赤塚・横山らは皆世を去られており、伝達経路の特定は残存する資料に頼るか、生前に関係者が聴取した内容を収集するなどの手段を講じるほかない。

寓意が本質的に不明瞭であることは以前に触れたが、(註14)それでも寓意が寓意と理解されるのには理由がある。ひとつは何かのかたちでそのような表明があるため(魚がキリストを意味することは調査すれば記述を発見できる)。もうひとつは説明するまでもなく十分に理解できるため(ジョージ・オーウェル『動物農場』がそうであったように)。しかしながら筆者が、そして本稿が対象とする歴史寓話には表明もなく、説明不要の明瞭さもない。こうした条件下においては寓意を信じることはできても寓意を証明することは困難極まる作業となる。仮説を確定する要因が存在しないか、希薄すぎるからだ。表明が期待できないとすると作中の明瞭さが唯一の可能性ということになるが、この明瞭さは時代性や状況判断に大いに依存しているため、受け手がその文脈を共有しなくなったとき効果が消滅することは想像に難くない(守屋駿二『ボワロー‘諷刺詩’註解』では当時明瞭であったろう表現が現在では意味不明となっている例がみられる)。

表明のない状況判断的寓意を安易に信頼しては、意に反して手法の消滅を招きかねない。であるからこそ、筆者は(そしておそらくある程度の作者も)「注意喚起の企て」を重視するのだ。検閲を逃れるための迂遠さが慣習的に支配する歴史寓話において、(註15)表明もなく状況判断にも一定の関門を(意図的に)構築しなければならないのであれば、何か寓意の指標となる特別な装置が要求されることとなろう。そしてまた、歴史的変遷と創作上の要請によりヴァリエーションを許容するということは厳密性を犠牲にすることと同義であるから、寓意使用の意図の有無を問うにあたって、制作側・受容側ともに署名・刻印・指標、すなわち「企て」の質と量を基準とすることになるのではあるまいか。(註16)

文学作品に限らず、歴史寓話すべてに該当する指摘として、前述したヤウスを再召喚しよう。「文学作品は、その読者の期待をなじみのない美的形式を通じて打ち破り、同時にさまざまな問いに直面させることがある」(註17)「読者は、最も親密な名宛人の立場から締め出され、消息を知らされていない第三者の位置に移し変えられる。彼はまだ意味も定かではない現実を目の前にして、自ら問いを発見せねばならない。するとその問いは、文学の答えが、どのような世界の知覚と、人間同士のどのような問題に向けられているかを解き明かす鍵となるのである」。(註18)作品と歴史の、作品と寓意の接続とは、とりもなおさず、フィクションと現実の、日本が辿った歴史的
経緯やそのなかで抱えることとなった諸問題の導く未来への過程である現在と、想定される受容者の接続である。そしてそのような機能を果たす「企て」とは、接続端子とコードの規格と言える。その意味で、自動車という魔法は共通の標準規格となりつつありながら、同時に規格そのものの変異によって脆弱性を孕みつつあるのではないか。

「『魔法の力』とは自動車である」。しかし、その「力」は変異と多様化に伴う脆弱化が懸念されるため、使用の際には「重ねがけ」を推奨すべきかもしれない。


(註1)分析は割愛する。以下、具体的に名を挙げた他の作品の場合も同様に割愛するものとする。

(註2)「WEBアニメスタイル 東映長編研究 第14回 白川大作インタビュー(7)『魔法使いサリー』と博報堂時代」を参照。

(註3)比那北幸「手塚マンガの風刺性を検証する――『地底国の怪人』の場合――」を参照。

(註4)H・R・ヤウス、轡田収訳「挑発としての文学史」『挑発としての文学史』岩波書店、1976年、p.36~37。

(註5)前掲書、p.37~38。

(註6)受容美学や解釈学の視座によれば「全く一定の受容をするように用意させ」ることは恐らく不可能であろうし、「読者に一定の情緒を起こさせ」ることもまた同様であるが、その点は(筆者は同意しないものの)本稿でのこれ以上の言及を避けたい。

(註7)これに関して詳細に言及するにはある一定の専門知識が必要と判断し、精密な記述は断念した。

(註8)「アクア」などはよく使用される名称ではあるが、登場後まもなく「黒のベルファイア(車種)」が持ち出されるため、意図的なケースと判断した。

(註9)この点については特に前述の『魔法騎士レイアース』『魔法騎士レイアース2』がひとつの転換点である可能性は高いと筆者は判断する。

(註10)『放課後のプレアデス』である。

(註11)H・R・ヤウス、轡田収訳「挑発としての文学史」『挑発としての文学史』岩波書店、1976年、p.59。

(註12)新しいものを追求する姿勢から生ずることではあるものの、この方法は決して安全な(欠陥のない)方法ではないかもしれない。そしてそのリスクは他ならぬ制作側が負うこととなるだろう。

(註13)前述のように分析は割愛している。

(註14)比那北幸「手塚マンガの風刺性を検証する――『地底国の怪人』の場合――」参照。

(註15)仮説である。前掲記事参照。

(註16)「物語外的な注意喚起の企て」もこのような判断基準に含まれることはあらためて指摘するまでもない。

(註17)H・R・ヤウス、轡田収訳「挑発としての文学史」『挑発としての文学史』岩波書店、1976年、p.74。

(註18)前掲書、p.75。


(10月27日、『魔法騎士レイアース2』を加筆修正)

(10月31日、註11の記述を修正)

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