コラム 思弁的実在論の事

日本の思想・哲学業界で話題の思弁的実在論についてnoteでどれだけ需要があるのかわかりませんが、クリエイターたる者上に行くほどにこうした教養をつける必然があるようなので、まぁ書いてみることにします。

いくつかの新しい哲学が近年英語圏で提示され、それがアメリカで目覚ましいブームになり、遂に日本上陸、みたいな経緯のようですが、内容を見てみるとちょっとおい待て? という感じ。

思弁的実在論(speculative realism)はいくつかの派閥に分かれていて(4つくらいあるみたいです)、それらの総称。今日本で注目されているのは思弁的唯物論で、他にレポートではオブジェクト指向哲学が紹介されていました。

科学の世界では、発見された法則は永遠不変のものとは考えられていません。これはどういうことかというと、明日になったら万有引力の法則がなくなっていたり、重力加速度や摩擦係数が違っていたりするかもしれない、という世界観の中で生きているのが科学者である、ということです。それの良し悪しはおいといて。

その科学が扱う世界、モノの世界の哲学が思弁的実在論という形でまとめられているようで、思弁的唯物論の大雑把な捉え方としては「トラック転生しなくても寝て起きたら異世界にいるかもよ?」ですオブジェクト指向哲学になるとこれが「貴方の目の前にクトゥルフ絡みの事件に巻き込まれたと思しき生き残りがいたとします」という例え話が始まります。そこから「貴方はその生き残りから間接的にこの世界に関与しているらしき何か不気味なものの気配を感じます」と続きます。

これらはどちらも、認識に関する事です。これまでと法則が変わるかもしれない。今までもこれからも認識できないものが関与し続けているのかもしれない。そのような習慣的な考えから外れたことに関する論及。

人間にはどうにもできない水準で起こっている事が世界を決定的に変えてしまうかもしれない、という可能性の話で、今のところ僕は頭の体操くらいにしか思っていませんが、与太話としては面白い。作品作りにうまく取り入れられれば一味違ったものに仕上がるかも、という予感はありますね。

ところがまあ当たり前の事として、日常の生活世界にこうした考えを真剣に持ち出す意味となるとさすがに結構アヤしいです。ラカンの現実界、カントの物自体、アリストテレスの形而上学なんかと同じで、認識の外にあるものなんだから考えてもどうしようもない、確認もできないしね。

それがどうして今話題か、というと、単純に新しいトピックがなかったからなんじゃないでしょうか。業界で。外国でブームになるとそれを輸入してくるっていうのは欧米相手でも近隣諸国相手でもずっと日本がやってきた基本スタンスで、岡倉天心が言ったような文化の貯蔵庫というか、外から流れ着くのを待つばかりでこちらから広めるのがうまくないというか、何をどう広めていけばうまくいくのかとか、そういうあれこれについてのいろんな条件が重なった結果かな、と。

まぁそもそも思想・哲学業界の内実に詳しいわけでもないんですが、それでも端々から感じられることを総合すると、ひょっとすると小中学生にありがちな本で読んだ難しい事をひけらかして頭の良さを自慢する、という文化・習慣が大人になっても抜けない人達ばかり集まって一生続けられる経済圏とコミュニティを形成しているのではないかな、と……。

この推測が的中していたらそれはそれで物凄くくだらない事になりますが、一方で哲学・思想そのものはモデル、枠組みの応用範囲が広くて思考ツールとしては使いでがあったり人類の歴史や思考の痕跡が辿れたりとなかなか便利で興味深いところもあります。人文知の恩恵を受けている身としては(そのつもりなんですよ?)やらないのはもったいない、捨てるなんてもってのほか、くらいに思っています。要は使い方や使っている人達次第、ということで、頭の良さや教養を文章の理解力や処理能力と取り違えたりしなければよいのでは、という感じですかね。こういう人はそもそもクリエイティブじゃないし……。

というところで思弁的実在論に戻りますと、結局浅田彰が示した「新たな形而上学」という見解が過大でも過小でもなくその性質を適切に捉えているな、と僕は思います。そのつまらなさと身も蓋もなさも含めて。

ところで最後に、オブジェクト指向哲学に関しては光瀬龍『百億の昼と千億の夜』を読んでいればその感じは掴めると思うので、まだの方は是非。

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比那北幸@批評
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