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何かのために何かする。と『ただ今を楽しむ』

つながるワークでは、ある動き。をとにかく淡々とやってみる。というスタイルがベースになっている。テーマはあるものの、それが何のために役立つ動きか?などの説明は最小限。

参加者の方から意見が出た。「何が目的かわかってると、それをできれば、あっ、やった!という達成感が生まれるのだけど…」「何の為にやるか分かると、それが記憶の引っ掛かりになって覚えられるんですけど…」


『何かのために何かをするのではなく、ただ楽しんでみてください。』

『意味のないことを、ただやってみる。ただ味わってみてください。』

と、講師の柴田さん^_^


考えてみると私の生活は「何かの為に何かやる」ばっかりだ。

テストで○が欲しいために勉強する。今や何も覚えてない。何を勉強したかより、覚えてるのは、理科の時間に裏山に蓑虫取りに行ったこと。細く切った折り紙の中に入れとくと、せっせと色とりどりの箕を作った蓑虫。蓑は綺麗でも本体は意外と気持ちが悪い^_^

英語を勉強したくて英文科に行くために、高校3年の1年間、国語の時も数学の時も英語をしていた。入試の面接で、試験管から「いつ来ましたか?」って質問に「今日の朝に決まってんじゃん。何言っちゃってんだろ?」と思っているうちにまんまと落ちた^_^英語より覚えてるのは、白髪のおばさん試験管が私を待つ間。長い間。英語は全て忘れ、今や簡単な自己紹介さえままならない。^_^

舞台で星の王子様の王子様をやることになる。王子さまとして生きるために、色んな本を読む。作者の他の著書、生い立ち、エピソード…読み漁る。舞台に立つ。何も出てこない。。。必死に舞台で生きるために記憶を漁る。出てくるのは本の表紙の飛行機の絵ぐらいだ^_^

何かをしなきゃと焦ってもがく。するってーと…

「NOーーー!!」「自分でつくるな!やろうとするな!ただ、相手を感じろ!」「何もするな!ただそこにいろ!」演出家から雷の如く叫ばれる。(笑)覚えているのは、キーンという耳鳴りとともに意識が後方に遠のいていった感覚^_^


何かの為に何かをしても、何も残らない。

「何かの為」にしたことは見事に覚えていない。それに反して、私に残っているのは「何の為」に全く関係のない、体験。その生々しさ。

その時、否応なしに私はそこにいた。そして、その瞬間を感じていた。私に残っているのは「感じていたこと」それは私の真実。そこには私が在る。


ほんとに、何の為?

何かの為に?ほんとはいったい何のために?自分が思っていた「何かの為」さえあやしいものだ^_^


何かの為に何かをしてるとき、本当は何のためにやっていたのか?


「何の為」のその奥に、本当の何の為が見え隠れする。

認められたくて。見捨てられたくなくて。失敗したくなくて。欲しいのは自己肯定。私が存在することへの保証、安心感。

実は、そんなところだ。

不安回避の衝動。何かをずっと恐れている体で何かを感じる余裕があるはずもない^_^そりゃー何かを覚えているはずもない。


『ただ、今、ここを味わう』


ただ、感じればよかった。


ありのままにただ感じることができたなら、なんと豊かな世界が開かれただろう。感じる。この身体と心で体験する。生きる。

存在証明に焦ってばかりいた。

何かの為にならなきゃいけない。何もできない私には意味がない。何か為さなきゃ私の存在価値はない。

そんな不安を一旦横に置き、何かの為に何かしようとする頭を一旦保留し、

ただ 今を味わう。

そこから、 ただ在る。 ことができる。

そこから 『生きる』 に向かえる。

存在証明に躍起になって、あぁしなきゃこうしなきゃと、いつも大事な何かを飛び越してしまいがちだ。

何かをして自分を証明しなくても、ただ 今 ここ を感じるところから、存在は自ずと立ち上がる。

そこだけに私だけが私に与えることのできる自分への確信・安心がある。


『青い鳥』みたいだー^_^

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柴田さんのnote

https://note.com/masakazushibata/n/n62aeb3ba99dc




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