教育から考育へ
教育の教と言う字の右側は「のぶん」または「ぼくづくり」といいます。ぼくづくりは「ぼくっという音を表す擬声語」を表します。右手で道具を持っている象形で、本来の形は「攴」です。打つ、叩くという意味を持ちます。
何かを覚える時に「叩き込む」という表現をすることがあります。叩き込むを詳しく言い換えると、「くぎを打って中に入れる」という表現になる。「教」という文字にもそのような意味を含んでいるのでしょう。
児童発達支援施設に勤務していた時に、こども園に通園している子がいました。その園ではヨコミネ式を取り入れていて、夏・冬・春休みには必ずドリルを行わなければなりませんでした。長期休みでなくても家で取り組まなければならないもののようで、およそ120ページ/冊を毎日取り組む癖をつけるのが目的のようでした。
児童発達支援に通所している子だったのでお察し出来るかもしれませんが、集中や興味などをコントロールするのが難しい子だと そのドリルに取り組むのが本当に大変でした。
「みんな、もう3冊目で遅いから早くやってって言われる」「遊ぶ時間なくなる」と既に子ども自身がメリットや楽しさを感じられず、やらされている感を抱いていました。
そのうちに鉛筆を持つのも嫌、支援の時間にドリルを故意に忘れるようになるという姿が見られるようになりました。ドリルをやっていたとしても、ただこなすという姿で「字が上手くなりたい」などという意思は無いのです。
私は「嫌だ」という意思表示出来ることは素敵な事だと思うので、それは叱らずに支援の中では十分に他の活動を楽しむ方を優先しました。
それでも「お手紙ごっこしよー!」と集団へ声をかけると、真っ先に来て、便箋を選んだり職員に向けて自分で考えた文を自分で書くのです。
文字を書くこと自体が嫌いではないのです。楽しく描きたいという欲求の延長で「(ドリルは)嫌だ」と表現していたんです。
ドリル自体を否定しているわけでも、ヨコミネ式を批判しているわけでもありません。教育を受ける側の楽しみを見出したり、創り出すことは果たしてそこにあったのでしょうか。あったとしても本人には届いていなかったのかもしれません。そこに足りなかったのは対話ではないでしょうか?
子ども達が号令やチャイムで動くような取り組みではなく、学ぶ姿勢や自分で考えるように導入や環境を考え直して行けるといいなと思います。競争心で伸びる子もいれば、そうでない子もいる。ホテルの朝食バイキングのように「食べる」という行動に対して、選択肢をたくさん設けて行くことも良いですよね。
やらせなきゃ!という親の焦りも作らないことで、結果的に虐待や、親としての無力感を抱かせることも軽減出来ると思うのです。
対話が重要なのは学びの場でも同様に感じます。
たくさんのドリルやたくさんの勉強時間を与えるよりも、対話をしながら学ぶこと。立ち止まってしまいたくなる時には一緒に立ち止まって、対話する。そういう共同性を積み重ねたら、1人で学んでいく力が育むはずです。
ドリルがダメと言っている訳ではなく、やらせっぱなしという大人のエゴを叩き込む様な教育現場を無くしたいとただただ思います。
子どもと一緒に考えて育む。そんな環境が広がっていくために、保護者との対話を絶やさないで行きたいです。
お掃除係の実習を体験した保育士さん、きちんとした指導・教育を受けられずも頑張る支援者さん…など現場に困り感を持っている方へサポートすることで、子どもたちに還元されるものがあるのではと信じています。よろしくお願いします。