卑弥呼ファン集まれ―(19) エーッ繋げたー❓❓
いよいよ「古事記」「日本書記」に入りましょうかねー。 「卑弥呼」を語る上で「古事記」「日本書記」に入るには、その前提となる日本での「名前」が「○○」なのかーの確定がいるのですよねー。 なぜなら「古事記」「日本書記」の中に「卑弥呼」という名前はないからなのですよねー。「邪馬台国・邑日野」説、「卑弥呼・阿遅須伎、臺興・天豊津媛命」説があって、初めて「魏志倭人伝」から「古事記」「日本書記」に、また「古事記」「日本書記」から「魏志倭人伝」に入れるのですよねー。
「古事記」「日本書記」 〔御子の阿遅須伎高日子命(あじしきたかひこのみこと)はずっと泣き続けていて、言葉を話せなかった。 船で島々を巡ってなだめようとしたが、泣きやまない。 あるとき、子が泣く訳を夢でお告げしてほしいと願うと、その夜に見た夢の中で、子はもう言葉を話せますよと知らされた。
目を覚まし、早速子に聞いてみると、「みつ」と言うので、「そのようなところは、どこにあるのか。」と聞くと、 その場を立ち去った。大御神が付いていかれると、岩や川を越え、山の上まで行って立ち止まり、「ここ」と言う。 そこには神聖な水が湧いていたので、沐浴して身を浄められた。これが、国造が神の吉事ありと朝廷に奏上するときに、その水を汲み献上することの初めである。
これによって、妊婦はその村の稲を食べず、もし食べれば流産すると言う。以上の言い伝えから、この郷を「三津」と言うのである。〕 さて、この大国主(おおくにぬし)の神は、宗像の沖津宮の祀神、多紀理毘売(たきりひめ)の命を娶(めと)られ、 御子、阿遅鋤高日子根(あじすきたかひこね)の神を、 次に妹、高比売(たかひめ)の命(みこと)、またの名は下光比売(したてるひめ)の命を生みなされました。 この阿遅鋤高日子根の神は、今に言う迦毛大御神(かものおほみかみ)なのでございます。
大国主(おほくにぬし)の神、亦(また)神屋楯比売(かむやたてひめ)の命を娶られ、 御子、事代主(ことしろぬし)の神を生みなされました。
さて、大国主神(おおくにぬしのかみ)が、出雲で食膳の前におられた時、 波頭の間から、天之羅摩(あめのかがみ)船に乗り、ガチョウを剥いだものを衣服とし、帰って来た神がおられました。 そこでその名を問はれましたが答えず、また神々にあなたの所の神ではありませんかと尋ねても、皆が知らないと申されました。
その時、蟇蛙(ひきがえる)の申し上げるには「これは、久延毘古(くえびこ)が、必ずこれを知っているでしょう。」
そこで久延毘古を招き、尋ねたところ、答え申し上げるに、 「これは、神産巣日(かみむすび)の神の御子、少名毘古那(すくなびこな)の神です。」と。そのため、神産巣日御祖(かみむすびみおや)の命に申し上げたところ、 答へて仰るに「これは、本当に私の子です。 子らの中で、私の指の間から漏れ落ちた子なのです。 なので、お前、葦原色許男(あしはらしこを)の命とで兄弟となり、堅くその国を作りなさい。」 ※ 注事代主(ことしろぬし)=神葦原色許男(あしはらしこを)=命大穴牟遅(おほあなむち)
そこで、これより大穴牟遅(おほあなむち)と少名毘古那(すくなびこな)の二柱の神は、肩を並べて堅くこの国を作りました。 その後、その少名毘古那の神は常世(とこよ)の国に渡ってしまいました。 そこで、高らかに少名毘古那の神と申します。 いわゆる久延毘古(くえびこ)は、今では山田のそほど(案山子)と言います。 この神は、歩くことはできませんが、あらゆる天下の事を知る神です。さて、大国主(おおくにぬし)の神が憂いて仰るには「私一人で、どうやってこの国を作ることができよう。 誰かの神と私で、協力してこの国を作ることはできないだろうか。」と。
この時、光る海から近づいてきた神がいました。 その神は言いました。「私を祭り、御前に斎すれば、私は協力して国を作り上げることができます。 もしそうしなければ、国は成り難いでしょう。」
そこで、大国主の神は言いました。 「それなら、どのような形でお祀りしたらよろしいのでしょうか。」
それ答えて言われました。「私を、大和国を囲む緑の、東の山上に祀って差し上げなさい。」
これが、御諸山(みもろやま)の山上に鎮座される神なのです。 大日本彦耜友(おほ(お)やまとひこすきとも)天皇は、磯城津彦玉手看(しきつひこたまてみ)天皇の第二子です。 母は渟名底仲媛(ぬなそこなかひめ)命で、事代主神の子孫の鴨王の女(むすめ)です。 磯城津彦玉手看天皇十一年春正月一日、皇太子(ひつぎのみこ)に立ち、年は十六です。
三十八年冬十二月[六日]、磯城津彦玉手看天皇は、崩御されました。
元年春二月四日、皇太子は天皇の位に即(つ)きました。
秋八月一日、磯城津彦玉手看天皇を畝傍山の南の御陰井上(みほとのゐ(い)のへ(え))の陵(みささぎ)に葬りました。
九月二十一日、皇后を皇太后と称す。是の年は、太歳辛卯(かのとう)でした。
二年春正月五日、軽の地に遷都し、これを曲峡宮(まがりを(お)のみや)と言います。
二月十一日、天豊津媛命(あめとよつひめ)を立て、皇后とされました。 「古事記」 大倭日子鉏友命坐輕之境岡宮治天下也
此天皇娶師木縣主之祖賦登麻和訶比賣命亦名飯日比賣命
依山㠀為國邑 舊百餘國 國・邑は同格。 「邪馬台国・邑日野」説 「とよ」との、かすかな語源から 「臺興・天豊津媛命」
もっともっと深いところ「播磨風土記」「邑日野の条」 「阿遅須伎高日子尼命神」「山の神」「二の舞の面」「少有権者」「卑弥呼」。
ここの「播磨風土記」「邑日野の条」が語れなければ、どうにもならないのですよねー。私の生きてきた青年期からの60年、それまでの1800年を超えるスピードでの変革。伝え聞いてきた地元の伝承。私が死ねば「未来永劫」、「魏志倭人伝」は、夢の話で終わるでしょうねー。 ゆえに子孫のために書いて残さなければ―!!! まッー「徒然草」じゃないけれど、100年後位には「花開くー」かなー❓❓
迦毛大御神(かものおほみかみ) いま閃いた。賀茂(製鉄の神)❓❓「耊」=「賀」=「鉄」 (天一目箇命神) 葦原醜男=事代主命?? 葦原志拳乎(醜女)=アジスキ