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しょーめん そーらい」
蘇民将来
昔の鬼追い式では、「しょーめん そーらい」と聞いて、正面とは何を言っているのだろうと思った。かすかな記憶がある。昨今は「そーらい そーらい」とのみ叫んで、少し文化が薄らんでいるのかもー。
日本仏教では、薬師如来の本地垂迹とされ、牛頭天王に対する神仏習合の信仰を祇園信仰といい、中世までには日本全国に広まり、悪疫退散・水難鎮護の神として祭礼が各地で盛んに催されている。
牛頭天王は、釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされ、蘇民将来説話の武塔天神と同一視され薬師如来の垂迹であるとともにスサノオの本地ともされている。
夏越の祓では多くの神社で「茅の輪潜り(ちのわくぐり)」が行われる。参道の鳥居や笹の葉を建てて注連縄を張った結界内に茅で編んだ直径数m ほどの輪を建て、ここを氏子が正面から最初に左回り、次に右回りと 8 字を描いて計3回くぐることで、半年間に溜まった病と穢れを落とし残りの半年を無事に過ごせることを願うというものである。かつては茅の輪の小さいものを腰につけたり首にかけたとされる。
旅の途中で宿を乞うた武塔神(むたふ(むとう)のかみ、むとうしん)を裕福な弟の巨旦将来は断り、貧しい兄の蘇民将来は粗末ながらもてなした。後に再訪した武塔神は、蘇民の娘に茅の輪を付けさせ、蘇民の娘を除いて、(一般的・通俗的な説では弟の将来の一族を、)皆殺しにして滅ぼした。武塔神はみずから速須佐雄能神(スサノオ)と正体を名乗り、以後、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えたとする。
明治維新の神仏分離によって、権現類と並んで牛頭天王は通達で名指で批判され、天台宗の感神院祇園社は廃寺に追い込まれ、八坂神社に強制的に改組された。
神積寺の鬼追い式では、「しょーめん そーらい」「しょーめん そーらい」と唱えている。これは「ショーメンショーライ」と称して魔除けとする民俗例となるのですよねー。
『祇園牛頭天王御縁起』によれば、本地仏は東方浄瑠璃界の教主薬師如来であるが、かれは12の大願を発し、須弥山中腹にある「豊饒国」(日本のことか)の武撘天王の一人息子として垂迹し、すがたを現した。
太子は、7歳にして身長が7尺5寸あり、3尺の牛頭をもち、また、3尺の赤い角もあった。太子は王位を継承して牛頭天王を名乗るが、后をむかえようとするものの、その姿かたちの怖ろしさのために近寄ろうとする女人さえいない。牛頭天王は酒びたりの毎日を送るようになった。
3人の公卿が天王の気持ちを慰安しようと山野に狩りに連れ出すが、そのとき一羽の鳩があらわれた。山鳩は人間のことばを話すことができ、大海に住む沙掲羅龍王の娘のもとへ案内すると言う。牛頭天王は娘を娶りに出かける。
旅の途次、長者である弟の巨旦将来に宿所を求めたが、慳貪な巨旦(巨端)はこれを断った。それに対し、貧乏な兄の蘇民将来は歓待して宿を貸し、粟飯をふるまった。蘇民の親切に感じ入った牛頭天王は、願いごとがすべてかなう牛玉を蘇民にさずけ、蘇民は富貴の人となった。
龍宮へ赴いた牛頭天王は、沙掲羅の三女の頗梨采女を娶り、8年をそこで過ごすあいだに七男一女の王子(八王子)をもうけた。豊饒国への帰路、牛頭天王は八万四千の眷属をさしむけ、巨旦への復讐を図った。巨旦は千人もの僧を集め、大般若経を七日七晩にわたって読誦させたが法師のひとりが居眠りしたために失敗し、巨旦の眷属五千余はことごとく蹴り殺されたという。この殺戮のなかで、牛頭天王は巨旦の妻だけを蘇民将来の娘であるために助命して、「茅の輪をつくって、赤絹の房を下げ、『蘇民将来之子孫なり』との護符を付ければ末代までも災難を逃れることができる」と除災の法を教示した。