結構いい加減でも生きていけるということを知り続けた人生だった
若いころから、父には、
ちゃんと考えて・・・。物事を単純に考え過ぎる。
などと言われてきたのですが、一方で、
素直に考えたらええねん。複雑に考えんと。
とも言われてきました。
要するに自分の人生の進路をちゃんと考えなさいということのようでした。
独り立ちして?仕事をもち、家庭をもち、そして子どもをもって、また復帰していろいろな人と出会ってきました。
そんなに誰も考えてないよ・・・。
と言われ続けてきました。
それが若いころにはどうしてもわからなかったのです。
私はちゃんと考えていたのでした。
その時の衝動で、いっときの感情で物事を考えるのではなくて、なんで相手がそういう表現をするのか?なぜ?と考えてきたのです。
というのも、私はとんでもなく性善説をとってしまう人間だからです。(笑)
何もしなくても人は努力するものだと思っていますし、疲れたという表現の中に、サボるという考えがあるとは思っていません。
そもそも人というものは、自分より勤勉だと思っています。
私を怠けもの扱いする人たちがたくさんいる中で、というより私があれこれ動かないと回らない人たちがたくさんいらっしゃる中で、ひょんなことで、実家の母が一緒に暮らすことになりました。
母が久しぶりに私と暮らしていても、
よくやってるなあ・・・。
と思ってくれるらしいのです。
できないことがあったとしても、
一人で全部はできないから。
と言ってくれます。
でも、職場でも、結婚してからも、周りの言うことを聞いていると、私はとんでもなく動かなくてはならなくなるのでした。
というのも、私は周りの人がおかしなことを言うとも思っていないし、まあ、これはあるコンサルタントさんがおっしゃったことなのですが、
先生、やるべきことを手帳に書いておいた方がいいよ。たくさん抱えても、結局やってしまえるキャパシティもあるから、頭の中がいっぱいいっぱいになってるんだろうからさあ・・・。
とおっしゃったことがあるのですが、つぶれたり、何らかの支障が出れば、それは問題化されうるのですが、それがけっこう、
やってしまう。
から質が悪く、その構造の問題に気が付かなくなっていたのだと、今ならわかります。
ただ、すべての過程を経験したからこそ、そういうことの構造には敏感になっています。
一つ一つ経験してきたからこそ、分かることもあるというものです。
例えば、以前、三世代同居のご家族のお兄ちゃんと弟さんを見させていただいたことがありました。真ん中に女の子がいらっしゃいます。
お母さまはある種の専門職。
どうも聞いていると、なんで兄弟間でこういう関係になるのかな?お兄ちゃんがお母様に厳しいのかな?と思わされることがあり、
ああ、おじいちゃん、おばあちゃんだな。
と気付いたことがありました。
そういうの、まっすぐした人からは見えない構造があります。
専門職に就いておられて、それなりに働けば収入のあるお嫁さんにあれこれ思って、お嫁さんの立場が悪くなるように、言ってみれば孫たちに十分に吹き込みもされているだろうなと思って、それとなくお聞きしてみました。
こんなことありませんでしたか?
例えば○○というような・・・。
やはりあれこれ思い当たることもおありだったようでした。
最近、私はもう故人になってしまっていた人の、ある種の巧妙さに気付いて驚いています。その人の巧妙さのゆえに、私はどうも大事な人のことを誤解し続けてきたようです。
ズルいな。
とよく思ってきました。
実は私の使用する言葉の中に、あまりズルいという表現はありません。
かつて卑怯という言葉を即座に使った人のことを、
ああ、この人はこの言葉が語彙の中にすんなり入ってるってことは、この人自身が卑怯なんだろうな。
と思ったのです。
私は、卑怯という言葉もズルいという言葉もとっさに出てくるほど使いこなすことはありません。
むしろ、分析に分析を重ね、熟考した挙句に使っている言葉です。
でも、その言葉を使っていたのだから、そう、普段使いもしない言葉を使うのだから、それ相応にそう思わせるだけのからくりがあったはずなのです。
本格的に仕事を始めて、というか復帰して、私は本当にいろんな人と出会ってきました。
人に直接的に言っている人を、つまりは誰かへの反感を口に出している人は、意外にその背後に、まっすぐしていて人を信じがちなその人の性質を利用しようとする誰かがいたのかもしれないということも気づきました。
意外に大きな声を出して、誰かへの批判や悪口を言っている人って、根がそうでもない人も多いと思います。
そうでないこともあるけれど。
一番優しそうで、一番穏やかそうな人が実は、いい意味でも悪い意味でも怖かったりすることも知りました。
ちょっと何かがあるとすぐに反応する人がいることも。
私はここ数年、ある人のことを、ズルいと考えてきました。
その人は自分でも、ズルくないと言っていました。
だから余計にそう思わされたのかもしれません。
でも、ズルくない人にズルい行いをさせるだけのことはあったのだろうと思っています。
考えなくても、それくらいのことを言い出す人のいることを知っている人は、私の悩んでいることなど、あほらしいと思っていたことでしょう。
先生は、日の当たるところしか歩いてきておられないのでしょうね。
と表現されたこともありました。
単純に、私にはわからなかったのです。
今頃、あの世に行って、その人はどうなっているのだろうか?
この世の人を騙し切っていると信じていたのだろうか?
この世で、この人だけには離れられたくないと思っていた人まで騙し切れていたと思っているのだろうか?
自分が家族だと思っていた人しか大事にしていなくて、周りが思うほどいい人でもなかった、というより、大事にしている人がその人を思っているほどの人ではないことがバレないでいると思っていたのだろうか?
きっとこの世でいつもぽつんと一人でいたように、あの世に行っても、自分のしてきたことを誰かに咎められ、やはりそうありたくもないのに、一人でぽつんと寂しそうにいるのではないだろうか?
その人が寂しい人だったことを私は知っているのです。
ときどき淋しくなる・・・。
という表現を聞いたこともあるのです。
その人だけではない。
ほかの、周りの誰かを大事にしなかった、他の人からもその表現を聞いたことがあるのです。
その人たちは、誤解していて、周りの人が自分の能力に嫉妬するとか、嫉妬されてなんぼだとか、見当違いなことを言っていたものでした。
小さなことでも積み重なって嫌なことを言い続けたとしたら、それは大きな罪になります。
誰かを精神的に痛めつけて、それで幸せになろうだなんて、大きな罪過ぎると思います。
その人たちって、いつどれほどの大変な思いがあるのだろうか?
寂しさが、自分が招いたものだと気づく日があるのでしょうか?