春の日に・・・。
今日は本来お休みの日なのですが、新高1生の春期講習のため、朝から授業していました。
正直、入学してからの勉強の大変さについて、脅しをかけています。ゆっくりさせてあげたい気持ちもありながら、自信を持って入学してほしいのです。
実は、彼らと同じ私の高校入学前の春休みは、妹から移された水疱瘡で、なんだかあっけなく過ぎて行きました。合格発表も、入学説明会もいけませんでした。水疱瘡の後、予後を心配した父のために、そう春休みらしい気分も味わえませんでした。相当に熱が出て、大きな氷を買ってこようか・・・?という話で、うわごとまで言っていたのです。母に言わせると、その時私は何でも美しい詩らしきものを語っていたらしく、後で、
あれは何やったん?
と訊かれても、全然覚えてもいませんでした。
たぶんどこかで読んだ文学作品の中の一節でも頭の片隅から呼び覚まさせて、ふと口を突いて語っていたのだろうと思います。
そう言えば、中学時代、ドイツ文学が好きで、特にヘルマン・ヘッセが好きでした。
数か月前に、久しぶりに参加した哲学カフェで、先生に、私、マックス・ウェーバーが好きなんですよね。よくわかってるわけでもないですが・・・。
とお話しすると、
ああ、ウェーバーは、禁欲的ですからね・・・。
と言われて、ああ、なるほど・・・。
と妙に納得したのを思い出します。
すみません。脱線しました。
だから、ではないのですが、イマイチ乗り切れなかった高校入学を思い出して・・・、なのか、ちょっとしごいています。
それをまた、嬉しそうにもしているので、まあ、良かったのかな、という感じでもあります。
なんだか人間関係が変わりそうな春です。
片付いた、とも言えるし、なんだか今まで頼りにしていた人を、どこかで頼りにしていない自分がいます。
いったいどうしてしまったのだろうか・・・?
もう何十年、私はある意味ウソをついて生きてきました。いやいや大人なんだから、ウソの一つや二つないわけありません。
現実的な嘘ではなくて、人に合わせる、という意味でのウソです。
本当は付き合いたくないけれど、本来の自分とは遠いし、価値観も違うのに、いかにもあってるフリして生きてきました。
本当に求めるものを追究してこなかったような気がするのです。
合わせるだけ合わせて、自分を見失うくらいに合わせた挙句、自分が何を求めてきたのかわかってきた気がするのです。
さっきも、ある人から、
スッキリ何かに片付いた感じがしますよね!
と言われました。
もう少し素直に生きてもいいかな?と思っています。
私は、学生時代、京都に通っていましたが、どうも、大阪より京都の気質が好きなようです。
物心ついてから、大阪でも京都寄りの衛星都市に住んでいたからかもしれません。大阪市内の生まれなのに、コテコテの大阪人が苦手と言えば言えなくもありません。
私の電話を聞いていた生徒と大笑いしたことがありました。
私は、相当に不快な思いをしてそれであることを断っているのに、表面上は、そちらに申し訳ないから・・・、と、まるで、何かのお断りの時に、
先生にお世話になる資格などありませんから・・・。
と言ってお断りするみたいに、丁重に相手を立てて丁寧な優しい口調でお話していたのです。
すみません。
そこで私は、
私、今、思い切り京都人してた?
と生徒に聞いてしまいました。(笑)
でも、私は、京都のそういうところが好きなのです。
ストレートでない優しさ。
気分を害している相手にも、気を遣ったり、気を悪くさせないような表現。ある種の様式美・・・、という表現をされていた方がいらっしゃいましたが、そういう柔らかいところが好きなのです。
誇り高いところも好きです。
だから、新卒で勤めた学校で、大阪出身のある先輩を、温かい方だと認めながらも、どこかでストレートすぎて、距離を取っていたこともありました。どこかで戸惑っていました。
どこでそんな風になったのかな?ストレートに言って、対立したくないのでしょうか?
でも、意外に率直に思いを告げていたりもします。
考えてみれば、実家の祖母は、あんまりはっきりものを言わないタイプだったような気がします。
はっきりと婉曲表現の間で、自分はどちらになるのだろう?
でも、どこか使い分けているのも自覚しています。
春です。
区切りの春です。
でも、どこか区切れないあわいのような季節でもある、この、今の時期の春。
だから、考えることも感じることも、あっち行ったりこっち行ったりしているようです。