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最近、嫌いが言えるようになってきたこと

私は、周りで〇〇が嫌いという人が長らく苦手でした。
偉そうに、

あんたが誰かを嫌うほどの人間か⁉️

とまで思っていました。
別に博愛主義でもなんでもありませんが、社会的弱者をバカにして、エリート面する人も苦手です。
だいたい周りとの比較でなんで自分を測らなあかんねん⁉️

けども、意外に私にとってはなんか違和感ある人たちを良しとして、立てる人もいるわけで、一体何が真実なのかわからなくなっていました。

そんなこともわからずに、よくも今まで生きてきたものです。

私は超絶マイペースです。
周りが無理だと言ってもしたいことはしてしまうし、周りが良しとすることでもする必要がなければしません。
ただやらなければならないことを嫌々するのは嫌なので、それなら楽しくやります。

最近、若い頃にあれこれ言ってた人は、結局自分を守ったり、偉そうにしたいがために言ってたんだなあ、と気付きました。

私などが、生徒さんに注意しなければならないときに悩んで悩んでどうすれば伝わるか?ということを考えるのとは全く反対。

信じていた職場の違う校種の校長先生やその奥様は、高校部の教諭である私を可愛がってくださいましたが、それとて、あちこちに書かれている文章からは、

あー、その程度の話に付き合っていたのか?

と思わされる幼稚さです。
初等教育がなんだかんだおっしゃっていたけれで、単純に我が身と我が内の名誉や名声が大事なだけだったんだな、と思ってしまいます。

これが数年したら、私の思い違いだったということになれば嬉しいのですが。

だなあんて書いてますが、その実、一番幼いのは私でしょう。まっすぐしているらしいのはいいけど、その実、何も真っ直ぐには見ていなかったのだから。
人を自分の理想像に変え、都合のいいように見ていただけです。
絶望する理由も何もありはしません。
すべては自己責任。

でも、自分が、生きていくために、周りの姿を自分に都合のいいように解釈するのも自分の生き方ですから、結局頑固に自分の生き方を貫いてきただけの話でしょう。

最近、嫌いを言えるようになってきました。
いや、言いはしないけれど認識できるようになってきました。

正直進歩です。

私は、結構周りにあれこれ言われてきました。

何ができてない、これができてない。

できていてもこじつけもありました。
でも最近気付いたのです。
ちょっと表現するのが恥ずかしいけど。

何があっても努力するし、何が言われても諦めたりやめたりしないで、立ち上がってまた努力する。

そんなところが周りは怖かったのかなあ?って。

なかなか乗り越え切れないところを突っ切ってきたようです。
同じ条件なら、辛くなりそうなところを明るくニッコリ笑って、なんてことない顔して通ってきたらしいのです。

最近、今まで怖かった人たちに言いたくなりました。


そんなぬビクビクしないで。怖がらなくたっていいですよ!

何せ、私のようなアホは、嫌味を言われても気付かない。アホはきっと、最強だったのでしょう。
アホなだけに。

最近、アホらしー⁉️

という発見が多過ぎて、なんやったんやー⁉️と叫びたいのですが、かなり肩から力が抜けました。
しつこいほどに、毎日発見しています。

きっと怖かったんだな。

しょっちゅう暴力振るったり、暴言吐いたりしていた小学校の担任も、しょっちゅう大きな声出して怒鳴っていた指揮者も怖かったんでしょう、何かが。
彼らは弱いのでしょう。
プライドと劣等感の塊で、周りに脅かされそうになるとキレていたのでしょう。
とは言え、人生のツケを払うのは、私も含めて自分自身。

誰かがしたことは、自分に気付きがあった段階でさよならです。
何かにこだわっているということは、何かに気付け、というサイン。
私は、長年、なんだったのだろう?という疑問が解けて、ホッとしているのです。

たぶん役目が済んだら、私の心の中の登場人物ではなくなるでしょう。

最近、本当に気持ちが楽になりました。

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櫻井真弓/国語大好き!(&数学)
もしもサポートしていただけましたら、そのお金は文章を書いて人の役に立つための経験に使います。よろしくお願いいたします。この文章はサポートについて何も知らなかった私に、知らないうちにサポートしてくださった方のおかげで書いています。