大好きな老子ー自分を大事にしてこそ
以前読ませていただいて、重大な気づきを得た記事です。
私は若いころから、もう本当にがむしゃらに動いてきました。
もう生き急ぐように。
周りがそうでないと大変だったからというのもあったと思います。
内向きな性格を何とかしたかったし、まあ世間で何とかなる自分になりたかったのだと思います。
加えて、周りから頼りにされることも多く、あっち行ってもこっち行っても、時には独楽鼠のように(そんなにスリムではない。)走り回り、時には廊下を肩で風切って歩いていたようです。
男性と区別する気はさらさらなく、重たい楽器も同様に運び、できないことはできないことでした。
婚家では、結構その精神力を期待され、何を言っても大丈夫とばかりに頼りにされてしまい、どこかでひずみが来てしまったこともありましたが、それでも庇ってくれる人はいませんでした。つまりはどこか弱さを孕んだ家と言えるでしょう。誰かに何かを負ってもらわなければ成り立たない家というのはどこか脆弱なのです。それが外面的にいかにうまく行っていようと。
それは実家でもそうかもしれません。
兄と妹に対して何も言えない分、どうも両親は、それが正しいかそうでないかの別なく、私にあれこれ言っていたのだと思います。
もしかしたら私は、職場でのひずみも受けていたかもしれません。
あるとき、ある人が、あることについておっしゃいました。
そういうことが起こるってのは、対象が先生であっても、そもそもその場所に問題を孕んでいるからなんだよ・・・。
今こう書いていて、確かにそれはあるな、と思います。
仮に、そう、仮に、変な構造があるところに、全うなことを言い、全うなことをする人間が入ってきたら、その場所の脆弱さは露呈します。
そういう役割、良くも悪くもやってきてしまっているかもしれません。
と書いていて、なぜか自分のその位置でのやってきたこと、役割自体が明白に見えだすから不思議です。
どこかで、そのひずみを何とか埋めようと、私はあれこれ一生懸命にやってきました。
でも、そもそもあるひずみというものは、そうそう簡単に消えることはないのです。そもそもの性質としてあるのだから。
私は結構自分を酷使してきました。
いつもお給料以上の仕事をしてきたと思えるし、生え抜きの人よりも、この地について理解し、振る舞い方も学んできました。
誰かの弱さを負ってきたこともたくさんあります。
いつも大きな声で強いことを言っている人の、いざとなったら弱いところも見てきました。責任が取れない。
責任が取れない自分のことを棚に上げて、ちゃんと責任をとることのできる人を非難し、罵声を浴びせて、なんとか自分のプライドを保とうとする姿も見てきました。ほんっとカッコ悪い。
卑怯という語彙はほとんど私の中にないし、誰かを形容するときに使ったこともないのですが、ある人が、あることの反応に、咄嗟に、
卑怯じゃないですか!?
という言葉を使ったとき、
ああ、この人の中に卑怯さがあるから、咄嗟に出るのだなあ・・・。
と思いました。本当に卑怯な人だったと思います。いい人ぶって、上手に搾取。相手を悪者にするのが得意。そんな人、そこまで上手な人初めて見たかもしれない。
こういう人には逃げるが一手です。とにかく離れる。
弱い人ほど、誰かに頼り、何かあると誰かのせいにします。
そういう人を見て、誰が信用できるでしょうか?
私は、結構弱い人のあれこれを引き受けてきたような気がします。
それまで誰も続かなかったのよ、と言われたことも、若い身空で何とかやり抜くことができたし、今思っても、よくやって来れたなあ・・・、ということでいつの間にか習得できていることもあります。
でも、最近、自分の手元に、あれこれたくさんあることに気付き(コロナ禍も影響しているのかもしれません。)、できることとできないことを整理しようと思い始めました。
乗り切れるなら、引き受けるのも一法です。できれば自分の能力も高められます。
でも、それも限界が来てしまったら、元も子もありません。
私の周りには、結構無茶を言う人が結構たくさんいました。
その無茶に対して反論しても、
(私なら)できる。
と言われて、何度乗り越えてきたことでしょう。
労わられてしかるべきところで、頼られてばかり来ました。
父と母が当然解決するべきことで頼られたこともあれば、婚家でそれを解決するのは私ではないというところまで求められたこともあります。
それはおかしい。
私には私の課題があります。
その課題に対しては、私はちゃんと乗り越えてきたと思います。
言わば残っているのは、私自身の課題でないことばかり。
誰かの課題で、余分なことばかりです。
というのも、昨日心理学の本を購入し、新たに読んでいたから、気付いたのです。
親の課題は親の課題だなあ、と。
そうそう、私自身の課題は結構乗り越えてきています。
だから、もうそろそろ無理するのはちょっとずつ減らして、私自身がもう少し人生を楽しもうと思ってもいるのです。
と言いながら、大好きな勉強や仕事をするのは私の楽しいことだから、無理のうちには入りません。
それよりも、誰かのためになるから、とか、誰かが喜ぶからという理由であれこれするのばかりはやめておきたいなと思ったのです。
もう少し自分を大事にして見てもいいのではないだろうか?
とはいえ、だいたいにおいて、私が私自身を大事にしたら、周りからあれこれ言われる羽目になるのです。
何となく不機嫌そうな顔、とか。
そう言えば新卒で働いた学校で、およそ若い娘とは思えないような働き方をしていたときに、あるお節介、いえ親切なおばさまが、あれこれ言ってくださったことがありました。要するに、
自分のことをもっとかまったら、もっといい仕事ができるよ・・・。
ということだったらしく、自分のためにいろいろするようになったら、人間関係的にも良好になったし、自分自身も楽になって余裕ができ、柔軟な仕事ができるようになりました。
そのときのように、ちょっと工夫してみよう。
しっかり健康診断にも行き、カフェにも行き、家の中もやりたいようにレイアウトの工夫をし、何だったらパジャマも縫って、ちょっと今まで走り過ぎた疲れを癒してみよう。
そうそう走り過ぎ。
先日、やりたいようにやってると形容されて、ちょっと打ちのめされました。
人のために走って来て、やりたいようにやってると形容されるのか?と。
これは婚家でもあります。
言いたいこと言ってる。やりたいことやってる。
どうして私があれこれ我慢もし、できない努力もし、胸が張り裂けるような思いもしてきたことは伝わらないのだろうか?
いつもにこにこ笑っているらしいからだろうか?
いいことがあれば笑い、嫌なことがあれば不機嫌だとしたら、そんなのは大人ではないと思う。
しんどいことをもちながらも、ニコニコ笑えるから大人なのではないか・・・。
と言いたい。(笑)
やっぱり(笑)