見出し画像

素数ゼミとSNS

素数ゼミの謎を読んだ。13年もしくは17年周期で限られた地域に大量発生するセミのことで、筆者吉村仁氏は13と17が素数(1と自らの数字以外に割る数字=「約数」を持たない数字。)に当たることから「素数ゼミ」と名付けている。

13年または17年ごとに大量発生するといっても、どこの地域にも発生しない年(欠番の年)をのぞき、アメリカ大陸のどこかで毎年発生し続けているのだ。

セミの誕生の2億年以上前に遡り、相当古い。寒い氷河期を生き残る為に土中で過ごす時間が長くなっていったセミたち。素数以外の周期で成虫になるセミたちは沢山いた。でも仲間と同じタイミングで成虫になれないと子孫を残すことはできない。

自分とちがう周期を持つセミと交雑した次代のセミが成虫になったとき、パートナーとなるセミが成虫になるタイミングとずれてしまい、命をつなげることができずに滅びていく。結果的に交雑の周期が他と比べて長いセミ(13年セミ・17年ゼミ)が生き残り、その習性が現在も引き継がれている。なんとも壮大な話だった。

素数ゼミは一度に大量発生する。そして捕食者の虫や鳥、動物の糧となり、他のセミと同じように交尾が終われば死んでしまう。一匹一匹の生まれて死んでしまう過程の意味とはなんだろうと思った。

自分がサービスを提供する側に立った時、「誰かの・何かの・役に立つものでなければ意味がない」とつきあいつづけることになる。どんな仕事でも相手があって初めて成り立つから、当たり前なのだけど。

それはSNSなどのインターネット発信でも同じ。これからもっと多くの人が発信をしないことには成り立たないような状況になっていく。私ももちろんそう。

でも。
意味があるのか、役に立つのかだけを自分の行動の基準にしてしまうと、生きることがどんどん苦しくなって自分自身を狭めてしまうように感じる。「意味があるのか、役に立つのか」だけで行動できる人はそれでそれですごいと思う。
ただ、自分はどうやらそれだけだと疲弊してしまうたちらしい。

ネット場で言うなら映えないこと、意味がない、役に立たないことをすること、役に立たないことがあることで自分の中に余白をつくり、肩の力を抜くことができる。

生きていることはお題みたいなものがあらゆる面でひょんひょん降ってきて、いろんなことに向き合いながら進むこと。それに意味があるのか、ないのか。そんなことはわからない。でも、すべてのことに意味があると無理やり紐づける必要はないなとも思う。

素数ゼミという種の生と死も同じだと思う。
素数ゼミが13年、17年周期で大量発生することにより、虫や動物などの捕食者に食べられ、子孫を残すと命を終える。大量の亡骸は今度は樹の肥やしとなり、素数ゼミが大量発生する年ごとに年輪が大きく成長する。

素数ゼミの一匹一匹が孵化できなかったり、捕食されたり、役割を果たして命を終えることの意味はわからない。でも、全体で見れば、素数ゼミが存在して、活動することで他の種族の命を永らえさせることに貢献している。生命全体の必須課題が命を繋いでいくことなら、素数ゼミが存在することは生命全体にとって意味がある。

これを一個人の行動に置き換えてみると(無理矢理)。
SNSを通した発信・なにかのサービスを提供する立場にある場合、「誰かの・何かの・役に立つものでなければ意味がない」は必須の課題になる。

だからといって生きて存在する自分自身のすべての出来事・言動に意味を求めなければいけない、というわけじゃない。別の階層で捉えることが大事なんじゃないかと思う次第です。何かをできてもできなくても存在していれば相手との間に関係は生まれる。お互いは影響しあう。そうやって人という種族の私たちはなりたっている。

自分自身の心にそむかないで選んで行動を積み重ねられるだけでも、そうとうに難易度は高い。そしてそれができるだけでもかなりさいわいは大きいんじゃないか。SNS映えするために生きているのではないしね。

ということで、私はまた毛虫にかぶれたことに意味など求めませぬ。
あほだねえとか言われそうだよ。

まあよいか。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集