はじめまして
私は19歳長男、15歳長女、7歳次女
3人の母です。
現役保育士をしながら、
子どものほめ方叱り方講座を開催しています。
ママに寄り添った支援をしたいと思った
私の話を聞いてください!
長男と次女にASD(自閉症スペクトラム)の
診断をもらっています。
長男の療育歴13年が過ぎて
育児がひと段落した時に、
『私には育てられない…』と悩んだ長男の
夢に向かって走れている姿が、
誰かの夢になるように、
私の育児メゾットを伝えて
行きたいなと思い活動しています。
どんくさい子ども時代
私は小さなころから【どんくさい】子どもでした。
母はいつも怒っていて、突然キレて怒る人というイメージで、
萎縮して育ちました。
今思えば私も長男と同じように特性があり、
学校に持っていくものを忘れる事も多くて、自分の世界か強かったのでイライラしたのかもしれません。
そして母は、「言わなくてもわかるやろ」が口癖で、
なぜダメなのかを説明をしてくれることが少なかったんです。
(昭和の教育ですね(^^;;)
なので私はいつもなぜ怒られているかわからず、
母の顔色を見て育ちました。
せっかちな性格からか、
何をするにも遅い私の意見を聞いたりする事もなく、
決める前に母が決めてしまっていて、
チャレンジをしてみたいと思った記憶が
なかった幼少期でした。
小学生の頃、
隣の家のお家に赤ちゃんが生まれて、
毎日触れ合っていた経験から
赤ちゃんが大好きだった私は、保育士になると決め
短大に通い保育士免許を取りました。
しかし免許を取得するまではよかったのですが、
社会人1年目で大きな壁にぶつかったんです。
今までほめられた!と感じる
経験がほとんどなくて、家では
【どうしたら怒られないか】を
考えて生きてきました。
怒られないようにしか考えてこなかった結果、
自分で考えて、自分の判断と責任で
行動をすることが全くできず、
保育園に就職したものの、
仕事をするやり方を見て学んだり、
教えてもらった事から次につなげることが
全く出来なくて、何で怒られているのかがわからなかったんです。
保育士は年度初めに行事の年間スケジュールの
表をもらって、それにそって毎日クラスでやるべきことを
考えて行きます。
けれど、私はその表と日々の予定が結びつかず、
なぜみんな予定を知っているん
だろう・・・と思っていたんです。
(今考えたら、なんでやねん!なんですが^^;)
誰にどんな風に相談したら良いのかもわからなくて、
毎日泣いてばかりの日々で、自分は本当に昔から
何にも出来なくて取り柄がないなと、とても悲しい
気持ちでした。
その後も保育園を変えて保育士としては働いたものの、
成長スピードが遅くて、
1人前になれない感覚がずっとありましたが、
少しずつノウハウがわかるようになってきた時に
今の夫の出会い、
【自分の子どもを育ててみたい】という夢を
叶えたいと思って、専業主婦になりました。
我が子が教えてくれた発達障がい
育児に専念している日々の中で考えることは、
保育士の仕事をまたしたい!と言う気持ちでした。
「また社会に出て、今度こそは先生として活躍したい」
と思い、復職のタイミングを考えるようになりました。
長女が1歳半のタイミングで、短時間の保育士パートを
見つけて復職します。
掃除や配膳などの雑用でしたが、また先生と呼ばれて、
かわいい子どもたちに囲まれて仕事ができることが
とても嬉しかったです。
そんな時に参加した研修が、その頃から話題になる様になった
〔発達障がい〕についてのものでした。
研修が終わった時には長男の気になっていた
発達のこの症状は、
〔発達障がいだろう〕と確信していました。
研修で学んだ発達障がいの【多動児】とは、
動き回るのではなく落ち着きがない状態の事だったり、
オウム返し(「どれがいい?」と聞いた時に「どれがいい?」と同じ内容を答える)
が多い子、話かけに応答しても会話にならないなど、
長男の様子と同じだったんです。
当時、専門の医師も大きな国立病院のみで、
半年待ちの大混雑でした。
療育先を探しても全くなくて、あっても高額のもの
しかありませんでした。
就学を寸前に控えていて、
急いで対応したかったのもあり、
私は研修で学んで知った専門家の先生に
診てもらおうと、
ワラにもすがる思いで、大阪から
埼玉まで長男を連れて行きました。
そこで、発達障がいに間違いないだろう、
繰り上がりの計算も出来ないだろう。
と言われました。
(その後ですが勉強は問題無しで、
予後はわからないなと感じました)
その時の私は、やっぱりなと思ったのと同時に、
私の育て方が問題ではなかったと
ホッとしたのを覚えています。
長男が発達障がいだとわかったことで、
//私ができることを全てしよう!//
と心に誓いました。
保育士としてがんばってもう1度バリバリ
働きたいと思っていましたが、
時間も心の余裕もなくなり、
働くことと育児のバランスに
悩む日々が始まります。
療育を受けるまで
長男を療育に通わせるために、
必死で見つけた療育先の抽選に当選し、
晴れて通い始めます。
今はあふれるほどたくさん療育先があるのに、
当時はなかったのです。
その療育先は母親も講座での勉強が義務だった
ので、私も一緒に学んでいきました。
正直すごく高額でしたし、面倒だなと
感じていましたが、
【障がい】があると受容できていなかった私が
少しずつ少しずつ長男を理解できる
ようになれた大切な時間でした。
〔なんでみんなは友だちと楽しそうなのに、
いつも1人で遊んでいるのか・・・〕
〔なんで友だちの輪に入るとトラブルが
必ず起こるんだろう・・〕
幼稚園のクリスマス会ではお友達に、
「長男くんだけ帰って欲しい」と言われたり、
長男がいることで
大人に、「みんな困ってたで」と言われた事も
何回もあります。
そんな長男の療育を開始するまでは
〔もう私には育てられない〕と
夫に言った事もありました。
本当に辛くて、どうやったら逃げられるかを考えてばかりでした
そんな私を支えてくれた言葉が2つあります。
悩んでいるのを知っていた先輩の主任先生が
長男を見て、「あんなに話せていたら大丈夫よ」と
断言してくれたんです。
すごく勉強熱心で当時から資格をたくさん取得されている方だったので
とても信頼できる言葉でした。
それと同じ頃に、長男の幼馴染のママ友に
「どんなに賢いか知らんけど、道で会っても無視
してくるような子より、いつもニコニコ挨拶する
長男の方がめっちゃかわいい」と言ってくれたんです。
私は長男をかわいいとも思えなかったし、
長男の落ち着きがないところや、
すぐに友達に手が出てしまうところなど、
悪いところばかり気になり過ぎていて、
長男の良さが全くわかりませんでした。
とても悩んでいる時期だったので、
長男を小さな頃から知っているママ友に
かわいいと言ってさらにほめてもらえて、
「ちゃんと見ていてくれたんだな」と、
心の奥から嬉しさが溢れてきて涙が止まりませんでした。
この2つの言葉があったから、
私は今まで乗り越えてこれました。
今でも涙が出てしまう言葉です。
そんな日々のタスクをこなし、
出来ることを探して最大限頑張っていたら、
日に日に長男の問題が減っていきました。
私が否定することをやめて、
祖父母にもきつく言わないようにお願いし、
忘れ物大魔王の長男のために水筒を3本用意して、
プールバックは2セット用意して、
無くしてしまったり、
不器用で汚すことも多いため、
叱らなくていいように、
洋服は安いものを着させました。
長男は少しずつですか確実に変化していきました。
小5には、新年度に新しい担任の先生に特性を
知らせて、見守りをお願いしても、
信じてもらえないくらいでした。
(心配症の過保護オカンと思われていたと思います^^;)
長男の変化で私も成長
環境がガラッと変わる中学生は、とても心配でしたが、
5年間詰んできた療育の成果を発揮して、
自分で問題を解決して行くようになりました。
高校受験も選抜試験を突破して、
普通級の中に支援がある高校に
行くことが出来て、さりげなく支援をもらいながら、
理解ある環境の中で学ぶことが出来ました。
長男が高校を卒業する頃に、
「長男くんは発達障がいがある子の希望だね」と
職場の看護師さんに言われ、
私が長男に取り組んできたことは、
もしかしたら誰かの役に立つかもしれない
と思うようになりました。
ママが変わると子どもは必ず変わる
長男の変化は目にはなかなか見えにくいし、
急には変わりませんでした。
そんな長男と並行して、
次女の療育も開始します。
支援して私が寄り添えば、
変化していく事を体感しているので、
躊躇なく療育を開始。
受けられる支援、頂けるお金は
全て頂いて次女のために使っています。
私の役目は本人が
大変な事の中でも幸せがあって、
最大限の力を発揮して育って行けるように
環境を整えてあげて
寄り添っていくことだと感じていて、
育児に悩んでいるママが、
子どもに寄り添っていくことで、
子どもの自信につながって安心して成長し、
そこからママの笑顔も増えていくと思っています。
育児の悩みを減らしていくことで、
親子感の関係が良くなって、
子どもが大きくなって振り返った時に、
『あの時は大変だったけど楽しかったね』と
言い合える時間が増えると本当に
嬉しいなと思います。
悩んでいるママに未来は明るいものに出来るんだよ!
という想いが、伝わると嬉しいなと思います(^ ^)❤︎
長くなりましたが、読んで頂いてありがとうございました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?