欲望の模倣を超えて、自分が欲しいものを知ってしまった。
わがままな自分の居場所にひっそりと低反発のソファーベットを置いてみる。
結論から言うと『族』である。
だらだらとこれからが長くなるが、わがままな自分の心情をここに書き記しておきたい。
自分が欲しいものを知ってしまった。 それは欲求的ではなく、願望的なこういう状態でありたいと願ってしまうものである。 それはお金を払えるものでもなく、真似することでもない、ましてや奪うことさえできない。造っていくことでしか自分をその状態の現実に身を置くことができない。
頭の中で妄想して心地よい状態でも現実はそうではない 現実を生きていない状態は退屈になってきたのだ。
人というのは思っているよりも他人や身を置いている環境に大きく強く影響を受けることや流されることが知られている。そして、流行や誰々がやってるから持っているからと欲望の模倣をすることは周知の事実である。 しかし、このことを知るまで他人を見ては、なんでそんな簡単に流されるのだろうや自分の考えはないのかと思っていた。それでいて後から愚痴や不満を言っているのを聞くと自分は人に対して矛盾を感じてしまい、人と関わるのに苦手意識を強く感じてしまうようになった。今思えば最初に流されて行ったことも、後からの不満もその場の雰囲気や誰かの言葉の影響によって引き起こされた感情や行動に過ぎないことだったのだと理解することができるのだけれど。
前に書いたnoteで人と会う約束をしようとのことで約束通り遠距離の知り合い1ヶ月前に連絡して、無事に会うことができた。(別の用事のついでに会えたらいいなと思っていたためわざわざではない)会うのは約一年半ぶりであるが、それ以前も全然会っていたわけない。環境が変化しても自分が連絡取れるかつこの先もゆるく繋がっていたと思った相手だったので連絡してみた。見た目の変化はあった。ふくよかになり、おしゃれになり、身だしなみに気を遣うようになっていた。纏ってる空気感は少し柔らかくなっていた。 話することは近状報告ぐらいで共通の友人はいても二人もと連絡をとっているわけではなかったので、久しぶりー元気してる?今どう?と言った内容だった。 友人からの話題では内容的に人と関わっている話題が多かった。友人の紹介で恋人ができたと言っていた。知らなかった。そんな一面があるとは。そんなに人との関わりを楽しそうに話す友人を初めてみた。
自分は似たような人とつるみたいと思ってしまう傾向がある。その時から友人はドライな性格、人との付き合いも淡々とあっさりしているところが似ており自分にとって付き合いやすいと思っていた。
自分から出てくる話題は自分中心ばかりで他の人が出てこない。普段からまともに人付き合いしていないことがバレそうで恥ずかしかった。寂しさ紛れに連絡したとは思われたくなかった。
そんな友人を見て自分は嬉しかった。新しい関係性が作られていそうで楽しそうだった。近頃、自分の中で生まれているモヤモヤとサボり癖のツケが出てきて苦しくなっていたので、新しい環境でいい感じになっている友人を見て自分のモヤモヤの原因を自覚できて妙にスッキリした。
喜怒哀楽がわからなくなってきている。現実に対して感情的反応ができなくになってきている。あった出来事を感情的に話すのを聞いていて自分にはこの出来事をこんなふうに感じ取っていないなと思ってしまったことがある。
同じ出来事をこんなにも深く過ごしているのをみて自分って味気ないのかとふと思ってしまったのである。
そんなこんなでモゾモゾ感にうめき声が加わって限界ギリギリ状態なのである。めんどくさがりの効率化。そんな自分でもふと外から家に帰ってきた時自分にはおかえりと声をかけてくれる人は現れてくれるのだろうかと玄関で佇んでしまう時がある。大切な人が待っている家に帰えるシチュエーションに憧れてしまうような日々が来てしまうとは。
こんな少数単位の族(子ーつがいー親)の通過儀礼に憧れを抱くのと同時にもう少し大きな族(ブロックチェーン)のようなものが欲しいと考えついたのである。
かとしても自分は動物でいうと哺乳類人科だし、国で言うと日本国籍である。マイナンバーもあって日本国民であるのだ。それだけで族に属しているともいえてしまうし、壮大な地球の一部であり、全部であるみたいなこともいえてしまうのだが、今回はそういう話をしたいわけではない。
多くの人間の所属や居場所は「家族としての家」、「仕事や学校としての場」の二つが主であろう。最近は趣味で会う場所、行きつけの店としての場所というサードプレイスと呼ばれる空間。他は友人関係、恋人関係という人同士の関係性で建物としての場所は存在しない。(ネット空間については省略する)
自分はこれらの居場所や所属の外に外枠を望んでしまうのである。それが私のいう族であるのだ。以下が簡単な図解である。関係性は現実は複雑ではあるがここでは優劣をつけずに表現していく。私のいう族というのは図の右側の太い枠の円である。そして現実は場所と関係性が混じって人は生きていおり、『生活を営む・生産・消費』その相互的な枠組みの外枠が欲しいのである。
これだけを見ると、この外枠は宗教団体のようなものに行き着くのではないかと考えたこともあるが、そういった「族」ではないことをここに書いておきたい。あくまでこの枠は自分用であり、この枠内にいる人や場所が同じ外枠で囲まれている必要はないのである。関係性と外枠の間にある白い余白が重要であり、これを『自由』と呼べる空間なのではないかと思う。
この外枠があることで、関係性の外に出ても放り出されて迷子になるわけでも孤独になるわけでもない。これはお散歩空間のようなものであり、ゆとりがある。いろんな関係性と生きながらも自由に外に出られる。また、外枠があるおかげで、選択的に「ぼっち」になることもできるのである。外側から見ると、この外枠があるからこそ、余白でも内円でものびのびと過ごすことができるのである。私はこの枠組みを持つことで、帰属に対する不安から解放されたいのである。
では、この族とは一体どのようなものでありたいかと考えていく。人と人から生まれる空間=YES、物理的な建造物もしくは土地といった複数拠点である=YESである。物体的でないし、物体的でもある、それが自分が望む『族』である。族は大きいけど、実感がないものではない。取り囲んでいるような感じである。
言葉足らずで、曖昧な表現しかできなかった。今はまだ、思考がぼんやりと浮かんでいる状態に過ぎない。まずは、内円の関係性を様々に作り上げ、それが変容していく様を経験していこう。できることと言えば、仮説を立て、実証を繰り返していくことだけだ。