デリダを読んでいく③~ルソーvsデリダ『グラマトロジーについて』
ジャック・デリダとその関連本を読んでいく第三回は『グラマトロジーについて』である。
「グラマトロジー」とは文字学というような意味であるようだ。
デリダは、ソシュール、レヴィ・ストロース、ルソー等の読解を通じて西洋哲学に深く刻み込まれている「音声中心主義」を見つつ「現前の形而上学」について批判的に検討していく…訳だが、デリダらしく(?)その内部に深く潜り込んでいきその限界点を抉り出すような検討の仕方をしているのでなかなか読み通すのが難しかった(こういう本の解説としてウィキペディアって非常に優秀な場合が多いし、Youtubeなどでも簡潔かつ適切な解説をしているものがあったりするのでホント感心する)。
さて、今回はその中でルソーの『言語起源論』を検討している箇所について考えてみたいと思う(なぜルソーなのかというと、ソシュールは僕が『一般言語学講義』を読み切れていないからでレヴィ・ストロースの箇所に関してはあまり面白いと思えなかったからというごく個人的な理由だったりする)。
『言語起源論』(『グラマトロジーについて』では『言語起源論』と『試論』(Essai)と両方に訳し分けられていて僕はちょっと混乱してしまった^^;)では、人間の言語の起源を「歌」に求めている。
言葉の起源がものの名前の名指しとかではなく、人間の情念の表現である「歌」であるというのはいかにも音楽家でもあったルソー(文部省唱歌の「むすんでひらいて」のメロディーはルソーの作曲であるようだ)らしい。
ともかく、言語というものが欲求(動物性)からでも理性(人間性)からでもなく、その中間のような情念という中途半端なところから出てきているのだというのがルソーの面白い発想だと僕は思った。
だからルソーは音楽が理性で計算可能な「和声」によって進行していく彼の時代の音楽に対して批判的である。そうではなく、音楽は節=メロディーを中心に考えられるべきなのだと考えている。
デリダ的な観点からすると、ルソーの言う歌(=言語の起源)から抑揚(=メロディー)が失われ声(パロール)が文字(エクリチュール)となる。
単純に考えれば、『声と現象』での「音声中心主義=現前の形而上学」批判と同様に、ルソーの「歌=言語起源説」を現前の形而上学(これがこの時代のデリダの最大の標的であろう)として批判するということになっているだろう。
しかし、『グラマトロジーについて』のルソー読解がそこまでシンプルなものには僕には見えなかったのだ。
ルソーは確かに歌(メロディー)が失われたことを嘆いている。ただ、同時に、その失われた歌が、和声進行なしにただ情念の回帰として帰ってくることの不可能性も理解しているのだ。
ルソーは、教育論である『エミール』でもそうだが、確かに「自然に帰る」ことを一つの理想として描いた思想家であるが、ただ単にホッブズが言ったような闘争状態にある動物的自然状態への回帰を訴えた訳では勿論ない。
とするとルソーの歌はフッサールの声と何が違うというのか。
フッサールの時の声(パロール)は、文字(エクリチュール)の対立項だった。しかし、ルソーの歌は情念の顕れである。動物的欲求と人間的理性の対立項に対する第三項として設定されているのだ。だから動物的欲求である闘争状態を自然状態とするホッブズとルソーの自然は異なる。ルソーはあくまでも人間が人間であることを前提とした上で、動物的でもあり理性的でもある人間としての自然状態を夢想しているのである。それが歌(メロディー)こそが言語の起源であるという捻じれた言語起源論を産んでいる。
歌というものは、節(メロディー)の上に言葉を乗せて歌われるものである。日本でいえば、宮中の正月行事で歌会始の儀などがTVで報道され、天皇やその家族などが詠んだ歌が不思議な節に乗せて詠じられているのが見れたりする。オペラやミュージカルでは、それこそ登場人物たちの気持ち(情念)がメロディーに乗せて歌われる。ルソーの思い描く言語は、ただ観念(意味)を相手に伝達するだけの観念の乗り物なのではない。情念とは、その歌われるものの纏う雰囲気、メロディーが表現する感情であり、歌とは、つまり言語とは、それを共有する場を作り出す機能そのもののことなのだ。
しかし、パロールがエクリチュールに置き換えられるように、歌は和声=計算可能なものに置き換えられる。だからルソーは『言語起源論』をものし、そこにいささかの抵抗を試みようとする。
しかし、この夢の道行きが袋小路であることに、ルソーもデリダも気が付いている。
音声中心主義を批判しエクリチュールの復権を訴えたところで、現前の形而上学の強固さは微塵も揺るがない。歌という人間的自然なるものが、そもそも動物的欲求(=自然状態)や人間的理性の狭間の存在である以上、そこへ「回帰」することなど不可能なのである。
それでも尚、その狭間にあるものに言及せずにはいられない。それもまた、人間にとって逃れることのできない性なのである。どうしても、パロールだけでもエクリチュールだけでもダメなのだ。歌が欲しいのだ。
僕はデリダがこの性にこれからどう向かっていったのか、現前の形而上学との対決は如何に進んでいくのか、次なる本へとチャレンジしていくことにしようと思う。