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「自己呈示」からうっかり漏れた「自己開示」を”魅力”というのかもしれない

※これはアーヴィング・ゴフマン著「日常生活における自己呈示」の感想文ですが、原作が難しくて、ただ自分の考えだけの文章になりました。

自己呈示の隙間からうっかり漏れた自己開示が人の心を掴む

ネットとリアルで違う人格の人は、多い。

不思議なのは、ネットでの印象が危なっかしい人が、リアルでは柔らかくまじめな方だったりすること。

ネットでの姿は「自己呈示」、つまり人に見られたい姿を演じている状態。多くは相手に良い印象を残したがるが、稀に自分への期待値を下げるためにあえて攻撃的だったりふざけた印象を植え付け、嫌われて喜ぶ人もいる。

リアルでは「自己呈示」も当然ありつつ、本人の意思とは無関係に時折漏れ出す「自己開示」に触れることがある。それがなんとも素敵なのである。

「自己開示」は愛着を呼び起こす

漏れ出た「自己開示」の部分を本人は恥ずかしい、格好悪い、ダメな部分だと思っているかもしれないけれど、私はその「自己開示」に触れたら、どうにも愛着が沸いてしまう。「自己開示」される前よりも、心の距離が近づく気がする。自分にも似たような経験があるからか。

弱さ、格好悪さを見せると一段強くなれる

人は、自分の弱さや格好悪さを見せることで、強く優しくなれると思う。

そういう部分を見せることで、人のケアが得られるかもしれないし、違った視点を与えられるリフレーミングができるかもしれないから。

それって、プラスでしかないのでは?

本当に弱い人は、弱みを見せられない人

上記の仮説でいうと、反対に「いつもうまくいっているように見える人」や「いつも強そうな人」は、実は一番の弱者なのではないだろうか。

いつも強そうだと、人からの助けは得られにくそう。

「自己開示」は生き残り戦略かもしれない

私が超氷河期で就職活動をしていた時、卒業間際で決まった会社の面接では、あまり格好良くはない自己開示をして採用を得た。面接官には笑われたけど。

その経験もあり、見せたい自分の「自己呈示」から少しだけ漏れるくらいの分量で「自己開示」できた方が、人は生きやすいかもしれないと思うようになった。

弱さ、格好悪さの「自己開示」は、もはやあなたの”魅力”です。


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