印象的な一節のメモ


折に触れて振り返る際のメモとして。
何度も読み返す価値があるような本については、本記事に追記していきたい。私がそれを覚えていれば。

生の短さについて他二篇 セネカ

〜われわれに与えられたその束の間の時さえ、あまりにも早く、あまりにも忽然と過ぎ去り、少数の例外を除けば、他の人間は、これから生きようという、まさにその生への準備の段階で生に見捨てられてしまうと言って嘆く。

生の短さについて他二篇 岩波書店 11頁

これから生きようという人とは、例えば定年退職を終えてこれからは自由に生きるぞと考える人、長年離婚できなかったパートナーと別れて自由を謳歌せんとする人、彼らのことである。
本編にも記述があるが、我々はあたかも無限に生きるかのように時を浪費している。自由に生きようと考えているときには時既に遅し、という事態が往々にして、いや常にあると言っても良いのかもしれない。

(アリストテレース)曰く、「自然は動物にはこれほど長い寿命を恵み与え、人間の五倍も十倍も長く生きられるようにしておきながら、それに比べて、多くの偉業をなすべく生まれついた人間に定められた寿命はあまりにも短い」。われわれにはわずかな時間しかないのではなく、多くの時間を浪費するのである。人間の生は、全体を立派に活用すれば、十分に長く、偉大なことを完遂できるよう潤沢に与えられている。しかし、生が浪費と不注意によっていたずらに流れ、いかなる善きことにも費やされないとき、畢竟、われわれは必然性に強いられ、過ぎ行くと悟らなかった生がすでに過ぎ去ってしまったことに否応なく気付かされる。われわれの享ける生が短いのではなく、われわれ自身が生を短くするのであり、われわれは生に欠乏しているのではなく、生を蕩尽する、それが真相なのだ。

生の短さについて他二篇 岩波書店 11〜12頁

アリストテレスの「告発」には個人的には共感できるところはない。人間はただ生まれついて死ぬだけの存在であり、そこに価値は存在しない。偉業をなすべく生まれついたというのは自らの生や人間全体の生に意味を担保したいという欲求が透けて見える。
だが「生は蕩尽される」という視点には首肯する。自分達は死を目前のものとして生を捉えることは殆どない。

人は、誰か他人が自分の地所を占領しようとすれば、それを許さず、境界をめぐっていささかでも諍いが生じれば、石や武器に訴えてでも自分の地所を守ろうとするものである。ところが、自分の生となると、他人の侵入を許し、それどころか、自分の生の所有者となるかもしれない者をみずから招き入れさえする。自分の金を他人に分けてやりたいと望む人間など、どこを探してもいない。ところが、自分の生となると、誰も彼もが、何と多くの人に分け与えてやることであろう。財産を維持することでは吝嗇家でありながら、事、時間の浪費となると、貪欲が立派なこととされる唯一の事柄であるにもかかわらず、途端にこれ以上はない浪費家に豹変してしまうのである。

生の短さについて他二篇 岩波書店 15〜16頁

時間はどんな人間にも平等に与えられた財産だという格言は誰しも聞いたことがあろう。本書では時間をしっかり使うことの定義について下記のように述べている。なお下記は老人に対して言ってやりたいとする言葉の一節である。

いつあなたがしっかりした計画をもったことがあったか、一日があなたの意図したとおりに進捗した日が何日あったか、いつあなたがあなた自身を自由に使うことができたか、いつあなたの顔つきがふだんどおりの落ち着きを保っていたか、いつあなたの心に怯えがなかったか、これほど長い生涯にあなたが成した働きとは何であったか、あなたが何を失っているか気づかない間に、どれほど多くの人間があなたの生を奪い取っていったか、あなたの生のどれほど多くの時間を詮ない悲しみや愚かな喜び、貪欲な欲望や人との媚びへつらいの交わりが奪い去ったか、あなたがその生の中からどれほどわずかな時間しか自分のために残しておかなかったか。あれこれを思い出せば、(百歳になんなんとする)あなたが今、亡くなるとしても、あなたの死は夭逝だと悟られるであろう」と。

生の短さについて他二篇 岩波書店 17頁

かなり強烈なメッセージである。ちなみに夭逝とはいわゆる早死にの意。
私は32の誕生日を迎えようとする今においても、自分のための時間とは何なのか検討がつかない。ただ私自身も、悲しきかな、時間を他の人に分け与えることについてはなかなかのお人好しである。転職を一度経験したときにそれを自覚した。


書籍

「生の短さについて他二篇」の二篇は、心の平静を得るためにはどうすればよいかを説く「心の平静について」、快楽ではなく徳こそが善であり、幸福のための最も重要な条件だと説く「幸福な生について」が収録されている。

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