林家彦三 Hikoza Hayashiya
短文集。不定期更新。 ※「汀日記」「舎人日誌」「襟留文集」(日々の、えりどめ)の三部作のつもり。
2020.4〜2021.5。日記としての、作文集。 ※初稿。全体の一部分となります。 ※更新は終了致しました。 ※書肆侃侃房より『汀日記 ー若手はなしかの思索ノートー』(林家彦三名義)として発売中。 ※一部(未収録も含む)は個人誌『猫橋』(出版社:ぶなのもり)に掲載。
えりどめ。 それは着物の襟元をただすもの。隠れながらも十分に仕事をする、働き者。小さいながらも、よく見ると銀色にかがやく小間物。安いもの。それでいて安っぽくないもの。 そんな文章を集めてみたいと思った、ひとりの噺家。文芸にも落語にも悩んでいるらしい、若手のはなしか。 着くずれながらも生きていこうと思う。 そんな願いも込められた、日々の記録。
2024.11.10更新 *** 11月 11/11〜11/20 池袋演芸場昼席 ※彦三出番は、14.16 11/23 京やイベント 11/24 四ツ谷三丁目 若手三人会 詳細はチラシにて 11/29 渋谷のラジオ 12月 12/1 青葉台 JIKE落語会 正雀・彦丸・彦三 三人会 12/5 連雀亭昼席 12/6 渋谷のラジオ 12/10 連雀亭ワンコイン 12/15 富士山ホテル 12/18 郡山 12/21 牛めし? 12/22 練馬 2025年 1月
言葉 1 傷を癒すものは時間であるとは、一般的な処世術としても、週刊誌掲載の格言としても、そして家庭の医学的にもそれはある種の常識の戒めであり、また誰かを諭すための特効性のある諫言のひとつであるけれども、果たしてそれはそうだとしても、それだけだろうか。 時間と忘却が肝心なのではない。その仮定したときの、この種の問題について、きっとわれわれが欲しいと願っているのは、予防薬でも鎮痛剤でもないのだ。もちろん、それらは適宜必要なものではあるが--それよりも、ひとは、不意の精神的
弱いひとへ 7 弱いひとへ。そして〈私〉へ。この問を投げる。まさしく無責任に投げ出された言葉として包み隠しながらこの街の木陰に、あるいは仮想空間の四辻に、〈私〉はおおそれながらこの言葉を書き込む。
弱いひとへ 6 しかしほんとうに気にしないことが、いちばん良いのだろうか。そもそも気にしなければ、はじまらないことを。 気にしなくて良いという言葉には耳を貸すな。そう言いたい。しかしそれはまた無理なことだ。弱いひとにとって、気にするとは、まるで息をするように自然なことであって、それでいて毛糸を抱くような思いなのだから。 そもそも気にしなければはじまらないのだ。そして気にしないことなど、はじめから無理なことなのだ。弱くて、不器用で、悪い意味で繊細で、よって感情表現が下手
2023/2 ○牛ほめ ○鼓ヶ滝 今月は体がもうだめだと思っていたし、日々もまたどうにもならないので、落語を聞けるときにただ聞くという方法をとることが多かったが、それでも自分のもともとの憧れの風景が平される感覚を覚え、まさか病牀六尺、というほどではもちろんないが、寝ながらでも地平は拓けたような気もしたのであった。舎人の住宅平原は夢のように広く、わたしは今日もちいさく移動している。現状に震えながら。 初心を思い出すたびに悔しく、忸怩たる思い。久しぶりに牛ほめなどをさらう
弱いひとへ 5 では、どうすれば良いのか。 忘却。それはひとつの方法だろう。ただがむしゃらにやる。日々をこなす。 なにかを、書いてみる。わかるまで。あるいは、意識する。わかるとは遠い、海の向こうの国の、ひとつの標識のようである。しかも、それは夜。きっとわからないのだ。しかし、わかるという標識があるから行動をしようとするし、そのために身体も学習をするから、あるいはそのときに、わかるのだ。 それすらも考えるな。そんな声も聞こえる。日々忘却して汗をかけ。振り返らず。省みず
弱いひとへ 4 冷ややかに見えて冷ややかでないもの。温かみがあるようで全くないもの。それはそのままの謎でなくてはならない。かんたんな主題や物語の舞台道具にしてはいけない。 弱いひとがいて、言葉があるのだ。強いひとがいて、言葉があるのだ。言葉があって、それが氾濫しているわけではないのだ。よくよく見なければならない。 ざんねんながら、きれいごとではないと思う。われわれは天使ではないのだから。他人に対してもあらゆる非難をしながら、生きながらえているのだ。自分の中に、それらは
弱いひとへ 3 そうして言葉ひとつで左右されるならば、弱いひとは、やはり弱さを張りつめていなければいけないだろう。それらが読書だけではなく、いわゆる氾濫した言葉たちに対して存分に発揮される場合には尚更。 あらゆる流言が。愚痴が。書き込まれている。それを笑うか。あざ笑うか。見捨てるのか。それとも是認するのか。いや、そもそもないがしろのものなのだから、ないものとして扱うべきなのか。 どのみちそれら不服や満足の言葉たちは、どのような言葉も、書き込まれるか、書き込まれないかの
2023/1 ○近日息子 ○星野屋 冬枯れ。舎人を少し歩く。まったく言葉は入ってこない。全体は、なんとなく入っている。しかし、だめ。 春が兆すまでにはどこかでやってみたいと思っているが、寒くて体がどうも良くない。それに甘えてしまうのが、良くない。食生活も良くない。たまに鍋などやるくらい。 先日の勉強会では久しぶりに「普段の袴」をやる。その日は大師匠命日であった。煙草の仕草など、やるたびに上手くないと思うが、少しずつさまになればと思う。 暖室に籠るのが策と思うが、部
弱いひとへ 2 言葉がある。だから、言葉が増える。中でも、書き言葉。あるいは、言葉を書くという行為。 弱さを克服するための読むという行為は、ただただ弱さを紛らわすための読書術であることに気がつくかもしれない。それはいかにも、あの斜にかまえた危うさというものではなくて、それは享楽的なダンスホールにも似た、逃避なのである。それは読むという、最小限の行動。 何を言っているのだろう。そう思われるだろう。しかし、ご理解願いたい。ある種の弱いひとは、こういうことでしか、弱さに決着
弱いひとへ 1 弱くて、不器用で、悪い意味で繊細(いわゆる聡明ではない、後ろ向きで内向的な意味での繊細)で、よって感情表現が下手な人は、一抹の希望をいえば、だからこそれらが跳ね返って強さに変わったときには、きっと何よりも強いということを感覚的に知っているだろう。しかしまた悲しいかな、こういう人間は−−弱くて、不器用で、繊細な人は−−とうとうそうはならないままに終わる可能性がじゅうぶん過ぎるほどにあるということも知っているし、なおそれを知っていながらも、自分がどこまでも行動
『舎人日誌』 東都北東部、いよいよその行政が尽きる辺りを、舎人と云う。足立区部の最北端であると同時に、都政における地理上の最北端である。 「とねり」と読む。わたしはこの界隈で、日々を送っている。 わたしの頭上には、様々なものが行き交う。それらは様々に音を立てる。それぞれ唸っている。わたしにはもちろん、聞き分けられない。 それでも記録してみたいと思った。一つ一つを。鬱屈も悪口も承知で。そうする他ないと思ったのである。(いま、笑った人は、わたしのちいさな好敵手。あるいは
2021.3
2020.11
2020.9.3