3月11日のあの日に女子高生だった私へ
これは、2011年3月11日に首都圏に住んでいる女子高生だった私の記憶の記録である。
特に何か有意義な話も無ければ、特に何か震災や津波の詳細な被害を伝えているわけでもない。
ただ、あれから13年の時が流れて、私も大人になった。
ここで一度書き留めておきたい、そう思った。
その日は、年度末で、名前は忘れたが成績処理日のような日で、とにかく授業はなかった。
部活動のある生徒だけは登校していたようだった。
高校三年生になろうとしていた私はもうとっくに部活は引退しており、仕事に行く両親を見送り、一人で家で過ごしていた。
少し遅い昼ごはんを食べて、お昼のワイドショー的な何かを眺めていたような気がする。
その時、地震はやってきた。
揺れのことはあまり覚えていない。
とにかくやたらと長い、長かった、その記憶だけはある。
地デジ化に合わせて重い腰をあげて買い換えたばかりの薄型テレビはぐわんぐわんと揺れていた。
けれどそれを抑える余裕などなく、ダイニングテーブルの下にもぐり、机の足を握りしめて早く終われ早く終われと念じた。
これはいつもの震度3とかではないぞ、ということだけはわかった。
長い揺れがおさまって、机から這い出でるとテレビがいつの間にか消えていた。
停電だった。
住んでいるマンションの隣の中小企業のビルから人が飛び出してきて、無事を確認し合っていた。
自分のマンションの中では特に安否を確認したりすることは無かった。
今思えば、住民の多くが我が家と同じような親子世帯だったので、みんな仕事や学校に行っていたのかもしれない。
停電は次のような問題を引き起こした。
・テレビがつかないので情報が分からない
・古いマンションで、電気を使って水を組み上げていたので、水も出ない
・まだ3月で肌寒いのに暖房器具が使えない
ただ、当時はTwitterの有用性はまだまだあった。
阪神・淡路大震災を経験した人達から、停電から急に電気が復旧した時にショート・漏電などが起こることがあるとの情報を仕入れ、ブレーカーを落とした。
冷蔵庫は何度も開け閉めしなければしばらく冷気は保たれるとの情報も手に入れた。
運良く、両親それぞれと一度ずつ携帯電話は繋がった。
ちなみに当時はまだガラケーだった。
二人ともそれなりに大きなビルのオフィスに勤めていたため、下手に帰るより会社にいる方が安全だからと、電車が動かなければ無理には帰ろうとしないと伝えられた。
災害用の備蓄品の場所を教えられ、初めて一人で一晩を過ごすことになった。
洗濯用に風呂の水を貯めておく習慣があって、その水でトイレは流せたが、いかんせん飲用水・調理用の水はまったく備蓄していなかったのでカップ麺も袋麺もパスタも無理。
電気がないから冷凍食品も解凍できない。
夕ごはんとして災害用備蓄品を食べてみることにした。
乾パンは、飲用水がないとちょっと、いや、かなり食べにくいなという感想。
尾西食品の水でも戻せるアルファ米があったので、それはとても助かった。
ちょっと味はどうだったか記憶にないが、とにかく普通に米ではあったし、乾パンよりは圧倒的に食べやすかった。
一番助かった災害用品は手回し式ラジオだった。
わざわざ買っていたわけではなく、何かのおりに親戚から送られてきて、まあ置いておくかというようなものだった。
でも、電気がなくてもがんばってまわせば情報が手に入るということは何となく気持ちを安心させる効果があった。
流れてくる情報はほぼ全て「〇〇線は全線で運転を見合わせております」だったけれど……
とにかくこりゃあ両親は絶対に帰ってこられないという確信を持った。
大きな懐中電灯も用意してあって、段々と暗くなって不安が募る中、とても役立った。
しかし、大きな単1電池などほぼ備蓄がない。
いつ停電から復旧するのか分からない中で、電池が切れるのは避けたかった。
仕方なく、もらったけど使っていなかったアロマキャンドルや誕生日ケーキ用のロウソクを片っ端から燃やして暖を取り、明かりの変わりとしていた。
一本じゃ大した明かりにもならないと、同時に何本も燃やした。
ひっきりなしに余震が続いていて、その度に火事になったら本当にやばいぞ、と思って身構えていた。
今から思うとやってはいけないことだった。
普段から懐中電灯と電池はよく確認して備蓄しておくに限る。
日が暮れて、携帯電話の電池の減りが不安で使うのをケチりはじめた。
やたらと揺れるし、ラジオは電車が動かないしか言わない。
iPodで音楽を聴いたり、ダウンロードしておいたアニメを眺めたりしていた気がする。
定期的に電気が復旧してないか試していたが、ついたのは夜の10時前だった。
およそ6時間の停電だった。
電気がついた途端に家電が鳴った。
なんとびっくり、当時10歳の従兄弟だった。
聞けば従兄弟の家も、両親と連絡は取れたものの渋滞に巻き込まれて親が帰ってこないとのことだった。
今思えば、小学校からどうやって帰ったのかとか、授業はあったのかなかったのかとか、もしかしたら停電中ずっと心配して電話くれていたのかとか、なんかもっと聞くことがあったはずなのだが。
なんだか声が聞けて互いに満足してしまった。
電気もついた、安否も確認できた。
なんだか急に寝るか!という気持ちになってその日は眠りについたのだった。
その後の日々について
次の日の午前中に両親が帰ってきて買い出しに出かけた。
誰もが言っているように買い占め買いだめで、ショッピングセンターの棚は空っぽだった。
ちなみにその後、誰も彼も日本海側・西日本側に親族が住んでいる人は電池を送ってもらっていた気がする。
でも、日本全国地震は起こるわけで、日本海側や西日本側の人でも蓄えておくべきなのだから、送ってもらうのはよく分からなかったなと今は思う。
だって送ってくれた私の祖父母なんて石川県在住なわけだし。
やがて計画停電が始まり、また我が家は電気も水道もない生活に直面した。
がっつり夕飯時に停電をぶつけてくるのはどうなのよ……と思った。
ガスだけは点くので、予め水を用意しておいて、ランタンみたいな形の電灯で照らしながら鍋で米を炊いたのが忘れられない。
ちょっとキャンプのようだなと思った。
家庭科の知識も役に立つものだ。
大人になって家を買ったが、オール電化は絶対しませんと言い切ったのはこのような経験がある。
全部電気だったら米も炊けなかった。
テレビはCMが自粛となり、ぜんぶACの広告になってもれなく私もウンザリした。
ぽぽぽぽーん、同世代なら誰もが覚えているだろう。
番組も朝から晩まで地震関係で申し訳ないけど娯楽にはまったくならなかった。
そのあとは1つ年上の先輩たちの卒業式に出られなかったり、終業式もなく通知表は4月になって渡されたりなどがあったが少しずつ日常に戻っていった。
ただ、震度2か3程度の余震はずっと続いていて、乗り物酔いのような地震酔いが気持ち悪くて困った。
電気が足りない、節電だと、どこもかしも電灯が消されていた。
昼間は電車の中の蛍光灯が消され、夜でも街灯が疎らになった。
電気のありがたさが身に染みた。
原子力発電所の事故を受けて、花粉の飛散量のように放射線の予報が流れていたのも異常事態だったと思う。
あちこちで線量計でなんたらマイクロシーベルトと騒いでいた。
ありがたいことに前年度の必修の物理(……ではない、理科総合Aだった、が物理の教科書も買わされていた)で放射線に関する学習をしていたので、そんな騒ぐ量ではないなあと思えたことはよかった。
進路のこと
2011年に女子高生だった私へ
その頃の私は、とてつもない日本史オタクで、日本史を専攻する気満々でしたね。
でも、受験する学科こそ変えなかったけれど、入る研究室を選ぶ時には震災のことが少し影響しました。
ニュースでたびたび見かけた「こんな非常時でも、日本人は暴動を起こすことなく、粛々と並んでものを受け取った」というようなニュースを見て、何となく違和感を覚えていましたね。
”日本人”ってなんだ、”日本文化”ってなんだ、”日本人の道徳”ってなんだ……そんなことを思うようになったこと。
震災からしばらく経って、グリーフケアが注目されるようになり宗教者の活動が取り上げられていたこと、これも歴史よりも思想や宗教に興味を持つようになったきっかけでした。
その後、震災に関わる研究をしていたわけでは全くないけれど、歴史学ではなく宗教学の研究室を選び、大学院まで行くきっかけには東日本大震災の影響が少なからずありました。
13年後の未来の日本でも変わらず災害は起こり続けて、その度に尊い誰かの命が失われています。
2024年は私の第二の故郷とも言える石川県でおおきな被害が出ました。
それでもひとつずつ反省がされて、みんなが災害に備えて備蓄したり、色々な制度が整えられたり、防災教育に力を入れたりしています。
あの日のこと、忘れずに生きて行くよ。