「へろへろ」になるまで人に沿う
福岡に介護が必要なお年寄りたちを支援する「宅老所よりあい」という場があります。そこを運営する人々の奮闘の日々を記した書籍「へろへろ」がやばかった。
読んでみるととにかく面白くて止まらない。「よりあい」を運営する面々のキャラクターが濃すぎて魅力的なのですが、それを描く著者の描写力が素晴らしいです。時にどぎついユーモアを交えたかと思うと、ものすごく的を射た社会批評をさらっと入れてみたり。
「よりあい」は下村恵美子さんという人が一人のおばあさんの介護をできる場を作るために始まりました。下村恵美子さんが介護していたのは明治生まれの「大場さん」というおばあさんです。
大場さんは、ぼけた。毅然として、ぼけた。ぼけた大場さんはまるで風呂に入らなくなった。下の具合も怪しくなってきて、垂れ流し状態になることも多くなってきた
この大場さんに老人ホームをすすめると、
「なぁんが老人ホームか! あんたになんの関係があろうか! あたしゃここで野垂れ死ぬ覚悟はできとる! いらんこったい!」
と言われてしまう。でもそう言われた下村恵美子さんもすごい。
その激しい剣幕と覚悟の言葉は、下村恵美子を完全にしびれさせた。
「おほぉぉぉ。この都会で野垂れ死にする覚悟で生きとる『ばあさま』がおる。こりゃあその『野垂れ死ぬさま』をなにがなんでも拝ませてもらわんといかん」
となるのである。
でも大場さんの面倒を見る施設はどこにも見つからない。どこも嫌がってしまうのです。そこで、下村恵美子さんは、
「ああもうわかった! もう誰にもたのみゃせん! 自分たちでその場ちゅうやつを作ったらよかっちゃろうもん!」
となるのです。そこには「よりあい」の基本姿勢があります。
一人の困ったお年寄りから始まる。
一人の困ったお年寄りから始める。
「宅老所よりあい」の介護は、一人のお年寄りからすべてを始める。その人の混乱に付き合い、その人に沿おうとする。添うのではない。沿うのだ。ベタベタと寄り添うのではない。流れる川に沿うように、ごく自然に沿うのだ。
文字で書くとシンプルですが、やろうとすると大変です。
それは人手と根気がいる「効率とは無縁の世界」にあるものだ。
こうした運営方針なので「よりあい」は常にお金がありません。
なので、お祭りに出かけていって焼きそばを焼いたり、子供相手に「光るおもちゃ」を売って、百円、二百円を稼ぎます。あるいはジャムを作って販売したり、バザーも開催します。職員もボーナスが出ると、その一部をカンパします。
そんな「よりあい」が、定員26人の特別養護老人ホームを作ることになります。しかしかかる費用が1億円を超える計算です。補助金や寄付、募金などで何とかお金をかき集めようと奮闘します。
そんな時に、下村恵美子さんとともに「よりあい」を運営する村瀬孝生さんのもとに大手マスコミからドキュメンタリー番組と新聞連載のオファーが来ます。テレビや新聞で知ってもらうと、寄付も集まるとみんなが賛成する中で、下村恵美子さんは「だめだ!」と言います。
「世の中には、もらっていいお金と、もらっちゃいかんお金がある!」
珍しく厳しい口調だった。
「そんなものを利用して集めたお金は、自分たちで集めたお金とは言わない。自分たちで集めたと胸を張って言えないなら、そんなお金にはなんの意味もない。意味のないお金でどんなに立派な建物を建てたって、そんな建物にはなんの価値もない!」
そして下村恵美子は「そこを間違ったら、私たちは間違う」と言った。
この下村恵美子さんの言葉はすごいと思います。もらっていいお金と、もらってはいけないお金。その違いに気づけるかどうか。
お金の問題は常につきまといます。
特別養護老人ホームの建設に向けて資金部長を任された後藤さんは募金の金額が集まらず、元気をなくしていきます。集会の場でも「Tシャツが売れない」と下を向いて報告します。集会の後、下村恵美子さんが後藤さんに言います。
「あんたがそげん顔をして、どげんするね。しゃんとせんね。お金はみんなで集めにゃいかんとやろ。そげんときに、あんたがしょげかえっとったら、みんなもしょげかえるやろ。後藤さん。こういうときこそ、うそでもいいけん、笑っとかにゃいかんよ。そしたらみんなが、あんたについてくる。みんな、あんたのこと好きなんやけん、そのことに自信ば持って、もっと大きな声でやりなさい」
「自分が今やっとることに、自信ば持ちなさい。あんたは、ひとつも恥ずかしいことやらしとらんよ。お金がないけん、お金を集めよる。それは少しも恥ずかしいことやないよ」
すごくいい言葉だと思いました。
後藤さんは瞼を真っ赤に腫らしながら聞くのです。その後、後藤さんは募金箱を持って大学の恩師を訪ねます。恩師は何かと力になってくれます。
臆病風に吹かれなければ、事は少しずつ動き出す。大切なことは、申し訳ないと思う気持ちを、ありがとうという気持ちに変えることだった。それができれば自然と腹は据わってくる。調子に乗ることもなければ、間違うこともなくなっていく。
この「へろへろ」著者の鹿子裕文(かのこ・ひろふみ)さんは雑誌の編集などをしていたのですが、「よりあい」に顔を出していた頃は仕事に干されていたのだそうです。暇をもてあまし、月に40冊も本を読めたと書いています。どれも百円で買ってきた古本です。その頃よく聴いていたのがドアーズのアルバム。「まぼろしの世界」と「ラブ・ミ・トゥー・タイムス」の歌詞をジーパンに書き写して履いていたんだそうです。
薄暗い殺し屋のような目をして街を歩いても、道は歪んで見えるばかりで、いいことなどひとつも起きはしなかった。
しかしこんなときこそ、僕は努めて明るく振る舞おうと思うのだ。心を貧しくしないように気を配り、筋力を落とさないように鍛えておく。それが土に埋められながら僕が学んだ大事なことなのだ。悔しかったら拳を握ればいい。正気を失うことがないように、強く握りしめればいい。
こういう文章を読むと、なんだかこちらも泣きそうになってしまいます。
そんなある時、下村恵美子さんと村瀬孝生さんに呼ばれた鹿子さんは、雑誌を作るように言われます。製作できる環境を整えてもらい、パソコンも買ってくれるというのです。こうして雑誌「ヨレヨレ」の編集部が生まれます。鹿子さんが雑誌を作るのは十年ぶりのことでした。鹿子さんが作る雑誌の思いはこんな感じです。
身内だけが読んでる雑誌なんて最低だ。むしろ僕は「よりあい」の「よ」の字も知らない人にこそ読んでもらいたい思っているのだ。隅から隅まで漏らさず読んで「ああ、おもしろかった!」と言ってもらいたいのだ。
こうして「ヨレヨレ」ができ、そのうち本屋でバカ売れすることになるのですが、それはまた別の話です。
さて、「へろへろ」では「ぼける」ことについての記述があってこちらも興味深かったです。
「ぼける」という老化現象に対して、それをあたかも業病のように扱う世の中に疑問を投げかけるのです。「よりあい」の村瀬孝生さんは「ぼけても普通に暮らしたい」というテーマで講演し、「ぼけの世界」で暮らす人々の豊かさを話しているのだそうです。鹿子さんは今の社会は「ぼけても普通に暮らせない」社会だと言います。追い立てるように施設に入れて、それで安心を得ている、と。
「わたしがそんなに邪魔ですか?」
聞こえないはずの声が聞こえてくる。僕の中から聞こえてくる。土深く埋めた壷の中から聞こえてくる。聞こえない方が幸せかもしれない声だ。一度聞いたら耳から離れなくなる声だ。耳をふさいでも聞こえてくる声だ。社会から放逐された多くの人間が、犬が、猫が、孤立した世界の中で発する声だ。
ぼけた人を邪魔にする社会は、遅かれ早かれ、ぼけない人も邪魔にし始める社会だ。用済みの役立たずとして。あるいは国力を下げる穀潰しとして。
「野垂れ死ぬ覚悟」とは、おそらくそういうところからしか生まれてこない反逆の覚悟だ。人様からどんなことを言われようと、それでもそこで生きてやるという宣戦布告だ。
ぼけても普通に暮らせるようにしたいと願う「よりあい」の人々が作る特別養護老人ホームは他とは違います。管理や監視から自由で、支配と束縛からは無縁。そんな建物を作ろうとします。「施設」という言葉が喚起する社会から隔たった空間ではなく、施設と社会がゆるやかにつながるような佇まいなのです。
その特養がどうなったかは書籍で確認してもらいたいです。
こんな「よりあい」には最初は盛り上がったものの、その泥臭いやり方に嫌気がさして抜けていく人もいたそうです。
そうした人に対して鹿子さんは辛らつです。
美しい心の持ち主のような顔をして美しいことばかりを語ろうとする人はやっぱり怪しい。勝手な思い込みだけで先走り、そのくせ地道なことは全然やらない。そんな人がいると、周りは疲れて迷惑するだけなのだ。
そして、こう続けます。引用して、この文章を終わりたいと思います。僕は以下の言葉が介護の現場だけでなく、生きる上でも大事だなと思った次第です。
僕はそういう人たちに(おせっかいを承知で)言いたい。ユートピアなんか探すだけ無駄だと。そんなものは現実にはどこにもない。あるとすれば頭の中だけだ。それは頭の中にあるからこそ、美しく見えるのだ。ここではないどこかにあるのではない。ここになければ、そこにもないのだ。あっちこっち出かけて上澄みだけをすすり、それで世界が広がったとか深まったとか失望したとか言うのは間違っている。それじゃあ遠浅の海をただ横へ横へと広げているだけだ。いつも自分に都合のいい景色ばかり見て盛り上がっている。自分探しと同じだ。それでは何も知ったことにはならない。海には深海魚のいる世界だってあるのだ。それを知るためには、ひとつの海を深く潜っていくしかない。世界は奥が深いからおもしろいのだ。