自分の姿が見たければ
長い社会復帰の道のりを経て、今は地元の住人が入る、年齢層の高い施設で看護師をしている。私は延命反対派だが、誰が見てもそうは思わないだろうと言うくらい年寄りが好きだ。
私の社会復帰も、自分が年上の人間に構われる面を活かして、年配の人に色々教えて貰って伸びる事が出来た事もある。あと、若い人間とは違い、認知症が入ったような高齢者相手だと、対人関係の練習や実験をする事が出来る。失敗しても失うリスクが少なく、何度も練習出来るんだ。
人の気持ちが分からないとしても、場数を踏めば経験で察する事はできるようになる。
認知症の高齢者限定の話だが、スキンシップが好きな人が多い。ただ、クリアな人はプライドが残っているので、スキンシップは出来ない。その辺も対話や会話で察するようになる事が出来る。
健常者が苦手だとしても、利用者に対する扱いを見ていると、悪く思われる事は少ないので、年寄り好きにはいい事づくめだ。今の仕事は1回辞めるが、また戻ると思う。
昔自分の事も人の事も分からない頃は、人とやり取りするだけでダメージを受ける事が殆どだった。
でも、そんな中で思ったのは、自分の事を知る、己を俯瞰して見るのは、1人だけで知るのは難しいのだと言うこと。
人と対峙してその時に感じる痛み、それを辿る事でしか、自分の客観的な姿は見られないんだなと。これも後の介護の授業で習った事(名前は忘れてしまったが、自分の見た自分と他人が見た自分とかの話だ)
長患いのためもあって、身体のパーツの老化が早いので、もう昔のようには学べないけど、私は真っ当な人間として死ぬまでに、もっと色々知らなければ行けない。もし病気にやられてボロボロになってしまうとしても、悔いはないと思う。
私は自分の尊厳をとり戻す為だけに生きて死ぬだけだからだ