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ちっぽけな私の身体の中には、地球9周分の細胞が詰まっている。
永田和宏さんの「知の体力」
いわゆる「答えから問いへ」、つまり「正解を見つけるのではなく、問いを立てることの大切さ」を説いた基本のような本でした。
■「京都大学は、諸君に何も教えません。」総長の入学式の祝辞
■ヒトの細胞数は60兆ではなく37兆。単なる割り算ではなく、数えた人がいた。真理に辿りつきたい欲求がある。
■細胞を並べると37万キロになる、これは地球9周分に相当する。0.1ミリの卵子から我々は皆んな地球9周分の大きさに成長している。ちっぽけな私の身体の中には、地球9周分の細胞が詰まっている、実はとてつもなく凄い存在であること。
■学習から学問へ。学習は答えがある、学問は答えがない。
■読書をすることは、こんなことも知らなかった自分を知ること。すなわち自分を客観的に眺めて新しい場所を獲得すること。
■「知の体系」を、ここの場合に応じて、個々の状況に対応して、いかに組み替えて、その場に固有の「知」として再構成できるか、それを自らの手で行えるように訓練する、それが「知の体力」ということである。
■アリストテレス
「友達がたくさんいるということは、友達が全然いないことである」
■人間は本来はひとりでいるものであり、たまに友達と一緒になるというのが基本なのだ。常に誰かと一緒に行動していなければ落ち着かないというのは、ついに自分という存在に正面から向き合うのを避けていることでもあるのだ。ひとりで自分と向き合うのが怖い。だから、いつも友達が横にいて欲しい。
■孤独を知ることが自立ということであり、孤独の中でしか自分が自分であることの確認はできない。
■ひとりの人間が、何の関係も必然もないことをとにかく数十年にわたってやってきた。その時間がたしかに私の中に存在したということこそが、私の人生の時間そのものだった。
■自分が考えていたと思っていたものが、いかに曖昧なものであったか、いかに底の浅いものであったか、それは思いを言葉に置き換えるプロセスでのみ、明らかになってくるものだ。
■そもそも悩んでいる人は、人の意見を聞きたいと思いながら、人の言葉を容易には受け容れられない状態にあることのほうが圧倒的に多い。心を閉ざし、閉ざしてしまったことで解決法を見失った閉塞状態にある。そんな時、閉ざされた心の隙間、あるいはちょっとした割れ目から言葉を滑り込ませるためには、じっと我慢して話を聞き続ける時間が必要なのだ。
■自分が全的に受け容れられていると感じることができるとき、人間はもう一歩先の自分に手が届くものである。
■他者を知ることによって初めて自己というものへの意識が芽生える。
■ある特定の相手の前に立つと、自分が最も輝いていると感じられることがあるとすれば、それはすなわち相手を愛しているということなのだろう。その相手のたまに輝いていたいと思うことが、すなわち愛するということなのである。
■愛する人を失ったとき、失恋でも別れでも、それが痛切な痛みとして堪えるのは、愛の対象を失ったからだけではなく、その相手の前で輝いていた自分を失ったからなのでもある。
#知の体力
#永田和宏