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【探偵は甘すぎる番外編】朝日野探偵事務所の日常とバレンタインクッキー
あるいは探偵助手月影静佳のためいき
昭和レトロといえなくもない佇まいの朝日野探偵事務所はその日、朝早くからまるでパティスリーのごとく焼き菓子特有のバターと砂糖の香ばしく甘い香りで満たされていた。
けっして使い勝手がいいとは言えない事務所のキッチンで、190を超えるゴツい体躯にスキンヘッドという風貌の静佳が大量のクッキー作りに勤しんでいるためだ。
視覚的ミスマッチを起こすほど繊細な所作で、やわらかい卵色のクッキー生地を小さく均一に絞り出し、天板の上に美しく整列させる。
それを、やはり丁寧な動きで少々クセのあるオーブンへ運び入れて。
鼻先をくすぐるなんとも言えない甘く幸せな香りとともに取り出せば、それらはゆるりと美しいグラデーションを描き、完成の余韻に浸らせてくれる。
しかしーー
「ちょっと、ジョー! 焼き上がった先から食べるのやめてよ」
発酵バターを使った可愛らしい絞り出しクッキーは、できたはしから譲治につまみ食いされていた。
「しかたねぇだろ、焼きたてのこのバターの香り……がまんできると思うか?」
目を惹くほど整った容姿に雑な言動を添えて、探偵事務所所長は悪びれもせずにまたクッキーを摘む。
「もう! 子供じゃないんだから、我慢しようよ」
「子供じゃねぇから、がまんしないんだ」
「缶いっぱいにクッキーを詰めてほしいって僕に言ったの、ジョーでしょ」
「それは、……言った」
ことの発端は、バレンタイン戦線として数多のショコラティエが集い開催されるチョコの祭典に足を運んだ時の一幕にある。
うっとりするほどのチョコレート菓子とともに、今年はクッキー缶がやけに目立っていた。
チョコがけ、チョコチップ、カカオ練り込み……魅惑的な甘いクッキーが、芸術的な配置で缶の中に詰め込まれた光景。
そんなチョコレートの甘い香りと色とりどりの見目麗しいスイーツに囲まれた会場を練り歩きながら、まわりから集まる己への視線には無頓着なままに譲治は言ったのだ。
『なあ、静佳。クッキー缶って、缶いっぱいに詰まってりゃクッキー缶ってことになると思うか?』
『え? 缶入りクッキーとクッキー缶ってベツモノじゃない?』
『……べつもの、か』
そこで一度言葉を切り、長いまつ毛を伏せるようにして視線を落とす。
一見物憂げな美しい横顔だけれど、付き合いの長い静佳には分かる。
ものすごく碌でもないことか、あるいはしょうもない屁理屈を考えているな、ということが。
『でもな、一斗缶いっぱいのクッキーってロマンじゃね?』
ほらきた、と思わず嘆息した静佳を咎められるものなどいないはずだ。
『一斗缶って……18リットルだよね? 確かにロマンだけどさ。それをクッキー缶とは呼ばないよ、ジョー』
正確なクッキー缶の定義を言語化するのは難しいが、少なくともあの繊細な芸術作品と一斗缶入りを同列に扱ってはならないだろうというのはわかる。
『でも缶に詰めてるだろ』
『いや、まあ、確かに? でも、そもそもクッキーだとかなり詰め方に気をつかっても割れるんだからさ』
『割れるのは忍びないけど、でも、見たい、食べたい、一斗缶バタークッキー』
『うん?』
『しーちゃん、作って?』
『え?』
譲治からさらにとんでもない言葉が飛び出し、静佳は思わず真顔になって足を止めてしまった。
『それ、本気?』
『本気』
『ソレって、お店で買ったのを詰めるんじゃダメなの?』
『オレ、しーちゃんの手作りクッキーがいい』
『……』
肩越しにこちらを見上げてくる譲治の顔は、あざとくわざとらしく腹立たしいほどに静佳の急所を的確に突いた。
譲治は、無類の甘いもの好きである。
和洋中を問わず、生クリームに餡子、スパイス、焼き菓子、揚げ菓子、ホテルメイドからコンビニスイーツまで、すべてをこよなく愛している。
そんな譲治にとって、シンプルなバタークッキーが格別の特別扱いだと知っているのは、彼の助手たる静佳だけだ。
その理由が25年以上前の二人の出来事に起因していることも。
『……一斗缶はさすがにムリだけど、1ガロン……4リットル分くらいならいける、かな?』
『マジか!』
ぱぁっと、花が咲くように笑う譲治に、静佳は苦笑した。
二人の幼馴染である捜査一課警部こと香恋に心底呆れられる程度には、自分が譲治に甘いことは自覚済みなのだ。
かくしてその瞬間、探偵事務所は所長の無茶振りによってバタークッキー製造場と化すことが確定したのである。
そしてこの試みは現在、顔だけはやたらといいクッキーモンスターの出現により、暗礁に乗り上げようとしている。
「1ガロンのバタークッキー缶へのロマンはどうしたのさ、ジョー」
「……しーちゃんのクッキーがウマ過ぎんのもいけない」
「はいはい。もう、食べていいけど、僕の分はちゃんと残しておいてよね」
「……善処する」
「それ、残す気ないやつじゃん!」
バレンタインまであとわずか。
バレンタインの祭事会場でふたりが自分たち用にと迎えた数多のチョコレートたちは冷蔵庫で眠らせたまま。
四十路を超えながらもまるで小学生のようなやり取りを繰り広げつつ、1ガロンクッキー缶チャレンジは続く。
了
「もういっそ、キッチンスタジオ借りようかな」
「え、……なんでだよ?」
「え、なんでそんなこの世の終わりみたいな顔で聞くの?」
*原案は『探偵は甘すぎる』のイラストを担当してくださった小田恵子さま
バレンタイン戦線で私がおむかえしたクッキー缶報告からのアレコレでこうなりました