★穂月に視る夢、描き魅せる世界、その先に観るものへ #焔と星の旅路5
ひやりとした風に頬を撫でられて顔をあげると、アトリエとして借りた部屋の窓から見える空に一番星が輝いていた。
炎月期から穂月期へと季節は移り、緩やかに夜が昼の時間を侵食する。
イーゼルを立て、画材を大きく展開して一度キャンパスに向かうと、つい時が経つのを忘れてしまう。食事の仕込みを先に終えていてよかった。
「すまない、遅くなった」
部屋に蒼の光が舞い上がり、神の庭に呼ばれていた彼がこの部屋の中心へと降り立つ。
星々の神の寵愛を受ける魔剣遣いたる彼のまわりには、神気が別れを惜しむようにとりまいていた。
「おかえりなさい。どうだった?」
「ああ、星々の神から聞いたのだが、どうも穂月祭を迎えたある土地で禁呪の発動が観測された。早急に事態の収束に向かう必要があるとのことだ」
豊穣の祈りと感謝をうたう穂月祭は、地域によって捧げるものが変わる。作物による収穫祭となる土地もあれば、狩りの獲物を捧げる土地もあると聞いている。
「でも、祀るのは命の恵みと豊かさの象徴っていう点は変わらないはずよね?」
「ああ。だが、凍てつく眠りから目覚め、生命を司る花々が咲き乱れる華月祭に対し、穂月期の祭りは、これから再び長い眠りにつくための準備期間――黄昏のカオを持つ。それゆえ、魔の領域へ踏み込みやすくもあるのだ」
捧げるものが生命の象徴だとしたら、それはたやすく生贄へと転じるのだと。
その言葉に胸がざわつくのは、かつて読んだ神代の贄にまつわる逸話を思い出すせいだろうか。
「……明日は行き先を変えねばならん。本来ならば、君との先約を優先すべきなのだが」
先程から申し訳なさそうな顔をしているなと思っていたが、それはこちらとの約束を違えるからだと分かり、つい心が揺れた。
「あなたに伝えるほど神様が憂いてるなら、まずはその憂いを祓うのが先。そこに意味があるってことだもの」
「だが」
「ムリとか我慢とかじゃなくて、これはあなたを描きたい私のエゴでもあるから」
あなたに自分を優先させることへ愉悦を感じるようになってしまったら、おそらく私はもう二度と望むようにはあなたを描けなくなる。
「それじゃご飯にしよっか」
そう笑ってから、私はキャンバスをそのままに、食事のセッティングへと取り掛かった。
暖炉にかけた鍋の中では、凝り性で料理好きな兄弟子直伝、一角兎のスパイシースープが良い香りを立てている。ありったけの野菜、特に根菜類を豪快に放り込むのがおいしく作るコツだ。
食べ応えのあるスープに籠いっぱいの石窯パンをつければ健啖家な彼の笑顔はより輝くことを、食事をしていく中で知った。
「あらゆる経験、すべてが創作の糧となるって絵の師匠も言ってたけど、これは真理なんだよ」
ほんの小さな日常の一コマすらも、私にとっては創作の糧だ。
そうしてつかの間の休息の後、夜明けを待って、星々の神の力を借りた彼が扉を繋ぐ。
画材一式を詰め込んだ鞄を抱いた私をかかえ、彼は空間を容易く飛び越えるのだ。
「どういうこと? ついた途端にこれって」
星々の神が憂える場所――禁呪が発動したという教会に降り立った瞬間、私は大きく顔をしかめた。
祭りの期間は祀られる万物の神々の祝福が満ちて、つねよりもはるかに清浄な空気となる。教会であればなおのことだ。
なのに、ここは呼吸もままならないほど濃密な澱みの中にあった。
肌を刺すほどの毒性と腐臭、こびりついた恐怖の残滓、血の匂い。生き物の気配がしない。透き通る金色の光が満ちていく季節に、この場所にだけ金から転じたどす黒い赤が満ちている。
「聖域すら穢れ、呪詛溜まりができているな」
壁も床も天井も柱も、至る所無数に刻み込まれている紋様が、すべて呪詛だと気づくのにそう時間はかからなかった。
「もし、これが外に出たら……」
「ああ、人々の安寧は保てない」
見ている間にも、どろりとしたモノが渦を巻く。
「土地の浄化がまるで追いついていないのね」
「想定を超えて穢れの侵食が進んでいる。これは……精霊が堕ちたか、精霊に堕とされた者がいる可能性が高いな。急ごう」
そう彼が告げて一歩踏み込んだ瞬間、無限に湧くドロドロとした不定形な穢れがうねり、襲いかかってきた。
彼は背にある大剣を片腕でするりと引き抜き、そのまま音もなく滑らせる。
星々の燐光をまとって舞う髪に、ひるがえる精緻な意匠を施された長いローブの裾、身の丈を超える大剣を操る肢体から生み出される惚れ惚れするほどに美しい剣筋は、星誕祭で人々を魅せた奉納演舞よりもさらに磨きがかかっていた。
空間へと展開される無数の美しい光の方陣とともに、黒い波は、ほんの一振りでたやすく両断され、消失していく。
私はその光景を網膜に焼き付けながら、彼が澱みの元凶を探るようにより濃密な気配へ向けて駆ける背を、後れを取ることなく追いかける。
長い廊下を走り、角を曲がり、階段をのぼり、時に降り、地下を目指し、新たな場所を求めているのに、終わりが見えない。行き止まりがない。
けれど確かに核心へと近づいているのだと分かるのは、不明瞭な澱みの中から声を拾えるようになってきたからかもしれない。
いかないで、はなれないで、そばにいて、ここにいて、ずっとずっとあなたのそばにねえ
「この声、だれのものかしら」
「声? 音の軋みは酷いようだが」
自分の耳には言葉として認識されていないとこちらへ告げる、そのわずかな隙をついて逃れた黒い靄の中に私は人影をみた。
「待って!」
とっさに手を伸ばし、次の瞬間、罠にハマったのだと気づいた時には既に遅かった。
迸る黒い感情が波となって私へ押し寄せてきて、振り返った彼の手が私を捉えるよりも早く、この体はどこかへと引きずり込まれる。
いかないで、そばにいて、とらないで、うばわないで、なくしたくない、はなれたくない、まつことなんてできないから、そばにいてここにいてかえしてかえしてかえしてかえしてあのひとのもとにかえして、あのひとをかえして
そうして私は見せられる、理解させられる、その感情に、記憶に、私の意識が侵されていく。
知ってしまう、わかってしまう、見えてしまう、追体験と呼ぶにはあまりに生々しい惨劇の記憶が私の意識になだれ込む。
この村の人間によって穂月祭の夜に引き起こされた悲劇――かつて起きた疫病の蔓延に、村が選択した邪祓いの儀式は、黄昏に傾く季節であるがゆえに生贄を捧げる方向へと傾いた。
精霊の愛した少女を神の供物に決めてしまった。
だから、ああ、だから、神の花嫁にされる前に、きっと精霊は――
あのひとがくるわされた、こわされた、どうしてかえしてかえして、さみしいくるしいあいたい、うばわないでゆるさないかえってきてかえして、あのひとがいないならこんなせかいいらないなくなってしまえゆるさないゆるさないあのひとがいない
先に堕ちたのは精霊の方なのだろう、そして彼女はその喪失に耐え切れずにここへ魂を囚われ、変質した。互いの愛が互いを縛り、永遠を約束したからこそ、永遠に囚われた。
「でも、そこに留まっていいとも思わない。魂が穢れ、堕ち切ってしまえば、そこから先に未来はないよ」
そう言葉にして呟いたとたん、溺れるほどの混沌と呪詛の渦から、私の体も意識も四方を岩肌で囲まれた空間に放り出された。
視線を巡らせても、上にも下にも左右にも、出口につながるようなものはない、閉じた場所。
岩壁をくりぬいたような空洞にただひとつ安置された黒曜石の棺と、その上に置かれている朽ちた花の冠を目にして、ここが『澱みの核』なのだと告げている。
なんらかの呪術、儀式の成れの果て。
棺にはまるで炎のように不定形に揺れる影が覆い被さりながら、こちらへと牙をむく。
おなじくせにたえられないくせに、よわいくせに、まもられるだけのくせに、わたしをひていするあのおとこだっておなじおなじおなじめにあわせてやればわかるのよ、こんなせかい、こわれてしまえ、あなたをこわしてしまえば、よわいそんざいはいつだって、ねえ、かんたんにうばわれてしまうんだから
「……確かに私は強くないし、彼が大切にしてくれる《絵描きの手》を私も大切にしてるけど、だからって戦えないとは言ってないんだよね」
兄弟子たちとの鍛錬の日々、師匠のもとで歩んだ武の道は、たとえその後に違う道を歩もうとも消えて無くなるわけじゃない。私の一部だ。
そして、邪を払う巡礼の旅を使命とする彼の足手まといになることは、私の矜持が許さない。
だから、私は絵描きとして立ち向かう。
「方法は、彼と神々の書物が教えてくれたしね」
鞄から取り出した絵筆を握り、なにもない空間に画材を大きく展開する――これは彼から手ほどきを受けた私専用の魔術だ。
手元には、景色や光を顔料へと変える繊細な意匠の硝子瓶と、そこから生まれた数多の色を閉じ込めたインク壷。
腕には、宝石化を果たしたガーベラのバングル。
そうして私の頭の中には、彼が連れて行ってくれた神話図書館――《星海の王が眠る城》で得た膨大な知識たち。
想い出の景色を閉じ込めた顔料は、真っ黒に塗りつぶされた虚無にすら彩りを与えることを私は識っている。
「別れは辛いよ、確かに苦しい。私だって、考えるだけで、魂が引き裂かれそうになる」
彼には聞こえず、私には聞こえた嘆きの声は、私の中の望みや恐れが澱みの核とある種の共鳴起こしたがためだ。
私はそれを認める、事実として、その弱さごと自分を受け入れる。
「それでも、信じてるから。運命を手繰り寄せて、もう一度巡り会えると信じてるし、信じさせてもらえてるから」
むき出しの岩肌をキャンパスに見立てて描くのは、少女と精霊が過ごしてきた幸福な時間――そして、どれほどの時間がかかるかはわからなくとも、きっとこれから見ることができるかもしれない未来の時間だ。
思い出してほしい、気づいてほしい、癒されてほしい、願ってほしい。
眩しく輝く一等星。導となる、暁の星。彼を想い、彼に寄り添い、過ごした時間が確かにあったことを、私は見た、視えた、触れて、心が振れた。
私にとって彼は光で、でも彼にとっても私が光となれるのなら、それはもはや奇跡にも等しいのだから、喪失の痛みをそのまま膿ませてはいけないのだ。
あなたは私の星だと告げた日の、必ずまた巡り合おうと誓ったあの瞬間を、すくいあげて、取り戻して、もう一度魂の中心にその約束を置いて。
幸福な出来事だと、そう思えたあなたの心は、そっくりそのまま私に心にもあると分かるから。
願いを込めて、描く、描く、描く。
ただ願いを込めて、閉じ込めた美しい時間たちを色に変えて描きだす。
呪詛と怨嗟にまみれた精霊の嘆きが、やがて弱々しいすすり泣きへと変わり、そうして次第にゆるりとただ切なく愛おしいものへ向けられた喪失の痛みを伴う吐息へ移り変わっていくまで。
どろりとした執着もまた、溶けて流れ、消えていくまで。
描いて描いて描き続けて、描きながら願い、祈り、語りかける。
「よもや、君が浄化してしまうとは」
一心不乱に祈りを込めて描き続けた私の肩に、ふいに彼の手が添えられ、我に返った。
「あ」
気づけば棺も花冠もなく、壁も天井も床も一切が無数の瓦礫となって積み上げられた荒れ地の中で、ただひとつ残された祭壇の前に私は絵筆を握ったまま立っていた。
描いた絵がどこにもない。ただ、きっと彼女が連れて行ったのだと、なぜかそう思えて心が揺れた。
「君は、何度俺を驚かせるんだろうな」
「何度だって新鮮な驚きを提供できたら嬉しいかな」
「それは、……もしかすると俺の心臓が保たないかもしれん」
そう言葉を落とす彼の、いつになく珍しい表情に、ついいけないと思いつつも胸が高鳴ってしまった。
彼は語らない、けれど、彼は私を探し、あの教会を片端から壊していったのだろうことが想像できたから、彼の助けをただ待つような自分ではなかったことに何とも言えない安堵を覚えながら、澱みの晴れた正常な世界で、私は彼へと笑いかける。
この人と過ごせる時間は有限。でも、有限であるからこその価値もきっとある。
だから描く。
青から赤に、夕焼けの色に染まるあたたかな色へと変わったあなたという存在を、生涯をかけて深く深く理解したいとひたむきに願い、そのために進むと決めているのだ。
「あれ?」
ふと、足元にやわらかな気配を感じて、視線を落とす。
真珠色の艶やかな毛並み――三年前に見たきりの変化の予兆、見えざる存在である“月猫”が、彼と私の間を優雅にすり抜けていった。
了
Copyright RIN
***
◆オーダーメイド物語
【あなたのイメージで綴るこの世ならざる世界の物語】
魔剣使いと絵描きの出会いから始まる物語の5作目にあたる続編。
キーワードは『変化』と『成長』。
季節は秋。豊穣への祈りと感謝につながる4つ目の祝祭『穂月祭』に絡んだ物語となります。
これでこの世界の季節すべてが出揃いました。
★一作目
★二作目
★三作目
★四作目