無防備な瞬間/もちはこび短歌(16)
中央線隣の君はかばんから小さい牛乳パック出し飲む
竹内亮『タルト・タタンと炭酸水』(書肆侃侃房、2015年)
文・写真●小野田光
わたしは一読、この歌はすこし変だと思った。それはわたしにとっては間違いなく好感だった。何が変かを考える前に、この歌の雰囲気が癖になり、すぐに頭に心に棲みついてしまった。だから、今日、考えてみることにした。
この歌、全体に幼い感じがしないだろうか。まず「君」が幼い。大人であったとしても、どこかあどけなさが残る。そう感じさせる一因は「小さい牛乳パック」にあるだろう。ふつう、大人は電車の中で「牛乳パック」を「かばんから」取り出して飲んだりしない。しかも、「小さい」という牛乳の量の限定がより幼さを醸し出す。
情景だけでなく、文体にも幼い印象を与える要素はある。助詞の省き方だ。初句にドンと置かれた「中央線」に驚く。言うまでもなく「中央線にて」という意味だ。さらに「小さい牛乳パック出し飲む」という下の句もすごい。「牛乳パックを」の「を」が省略され、4句目の字余りを結句でも続けない工夫がされているのだが、「を」を省略したことによって、「出し飲む」という動きが加速されている。「出してから飲む」という行為を「出し飲む」という4音で綴るこの圧倒的な加速度こそ、幼さの残る人の動きをまるでモルモットのようにせせこましいものに感じさせ、情景全体に愛おしさが増幅されるという妙な余韻を生んでいる。
電車内および隣という〈場所〉、二人称の〈行動〉、かばんや小さい牛乳パックという〈物体〉。これらを非常に丁寧に説明している情報量の多さを、最後の「出し飲む」で一気にまとめる力技。敢えて言うと、文体の未熟感が情景の幼さの魅力を演出し、一首全体を愛おしさで包んだ。
連作で読むと「君」はどうやら大人の女性のようだが、一首として読むと、「君」は老若男女問わずにどんな人でも当てはまる。幼児かもしれないし、老人でもよい。属性にかかわらず人間の根っこには幼さは残る。それが「牛乳」というアイテムとも自然と合致している。
作者の竹内亮さんは、端正な歌を詠む歌人だ。事実を淡々と、清潔感のある語の選択によって描写することに長けている。第一歌集『タルト・タタンと炭酸水』以降、口語に文語をまじえた作品も多い。対象をしっかりと見据え、事実をクリーンに描きとる。一方で、それを徹底的に追い求めた先に、竹内さんがとても無防備になる瞬間があるような気がしている。今回の掲出歌や前回の当欄で紹介したAIの歌にわたしはそれを感じる。「短歌的な端正さ」と「無防備さ」。これを「成熟」と「幼さ」と言い換えることができるように思う。この多面性こそ、竹内さんの歌人としての魅力だと、わたしは思っている。