写真ではない/もちはこび短歌(14)
文・写真●小野田 光
散らばったかばんの中身の手鏡に映るわたしのものとわかる手
椛沢知世「切り株の上」(第30回歌壇賞次席作品)
わたしが短歌作者であり写真作者でもあるせいか、「短歌と写真って一瞬を切り取る点が似ていますよね」と言われることがよくあるが、似ていない。短歌は写真では行えない写実ができるのだから(逆も言えるが、これはわかりにくい話になる)。
そのことを端的に表す歌が椛沢知世さんにはいくつもある。椛沢さんは近年、短歌新人賞の最終候補の常連で、多くの人が巧さを認めている歌人だ。では、どこが巧いのか。わたしは「写真と似ていない描写」に魅力を感じる。
掲出歌もそのうちの一首。この歌は32音だが、最後の「手」にそれまでの31音が掛かる。全力で「手」を描写した歌だ。手を写真に撮ることは容易でも、「散らばったかばんの中身の手鏡に映るわたしのものとわかる手」として撮影することは難しい。しかも、「わたしのものとわかる」状態に写すことは困難だ。この困難さは、「暗くて狭く雑然としたかばんの中を、どういった状態なのかわかるように論理的に写す」という技術的なハードルだけでなく、短歌と写真の私性の違いにも由来する。
写真は一般的に、一点凝視よりもある程度俯瞰した状況を写す方が写実的になる(もちろん優れた作品はその壁を乗り越えるのだが)。この歌の状況を撮る場合、かばんの中の鏡に写った手を撮るよりも、「わたし」がかばんに手を入れている姿を写した方が、一見、万人に状況が伝わりやすい写真になる。でも、それではなんとなく「わたし」を写した写真にはなるが、「手」を写したものにはならない。この歌の意図からすると、それではまったく写実になっていない。
わたしたちの日々の経験に裏打ちされた想像力は、写真の描写を悠々と超える。写真で写すことが困難なものも、一瞬で脳裏に絵を映すことができる能力があるからにほかならない。その能力を呼び覚ます短歌が、わたしは好きだ。そういう歌に刺激を受けたわたしの脳は、あらゆる種類の無限のレンズやカメラになって、世界中の万物に潜り込んで歌を作ることができるという勇気を取り戻す。そう、例えば、重なり合ったレタスの葉同士の間にできた隙間にある水滴だって、想像することができる。そして、それとは逆に、現実に流通している有限のレンズやカメラを使って、人間の眼と脳では想像できない状態を写真に収めようとするのだ。短歌と写真は似ていない。