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見えるとよいもの/もちはこび短歌(13)

文・写真●小野田 光

真夜中をものともしない鉄棒にうぶ毛だらけの女の子たち
東直子『春原さんのリコーダー』(本阿弥書店、1996年/ちくま文庫、2019年)

 わたしにとって、東直子さんは、いつもその行動力と発想には目を見張る偉人であり、監修者としてわたしの歌集を世に送り出してくださった恩人であり、しなやかな会話で穏やかな時間を共有してくださる知人でもあるけれど、やっぱりそれ以上に大好きな歌人なのだ。今日はそのことを書きたいと思う。
 今回、文庫化にあたり、東さんの第一歌集『春原さんのリコーダー』をゆっくり読み返した。童話的とか、ファンタジー的とか、非写実的とか評されることが多いように思う東さんの短歌だけれど、わたしは以前から少し違った思いを抱いていた。概して言ってしまえば、もっと現実に近い世界を短歌にされているように思っていたのだ。東さんの短歌を読む時には、何かリアルなものが、かなり生々しく伝わってくるように感じていた。それは手触りとか感覚的なことではなくて、現実的な描写のレベルで感じてきたことだ。すでに何回も読んでいる本書を、今一度丁寧に読み返してみて、その考えを確かなものにした。
 例えば、掲出歌。これはひたすら事実を詠んだ歌だ。わたしにはそう思える。「鉄棒」は「真夜中をものともしない」物である。夜を寂しがったりはしない。「女の子たち」は主に幼少期に「うぶ毛だらけ」の時代もある。もちろん男の子たちにもあるが、この歌は「鉄棒」遊びに興じていた「女の子たち」の描写だ。初句「真夜中を」に惑わされずに読むと、この歌は「昼間に女の子たちが鉄棒をしている歌」だと読める。同様の場面を描写した歌なら、この世にいくつもあるのではないか。でも、「真夜中をものともしない」「うぶ毛だらけ」という、誰もが日常的にはまったく意識していない事実をポンと提示すると途端に、自然と一定量の読者を魅了してしまうのは東さんだけだ。それこそが東さんのすごさであり、豊かさだと思う。
 〈一般的には見えなくていいものが見えてしまう人〉は、歌人には多いようにわたしは思う。そういった視点から作った歌が、「怖い歌」として評価される場合もある。見えなくていいものが見えてしまうという現象は、それだけで怖い。でも、「鉄棒」が「真夜中をものともしない」ことや、「女の子」が「うぶ毛だらけ」だと気づいてしまう東さんを、わたしは怖いとは思わない。そういう現実世界を見せてもらえたことを、読者としてとても豊かな体験だと感じる。もちろん怖い体験も豊かなのだけれど、もっと明るい何かを感じるのだ。世の中には、真夜中をものともしないものがあり、人生にはふわふわとうぶ毛だらけで鉄棒を回る時期もある。それはいいことだ。
 本書は、東さんにはそう見えているのだな、という事実がぎっしりと詰まった歌集だ。じっくり検証しつつ読んだつもりだが、ほとんどの歌は現実的に起こりうる事象だけが描かれている、とわたしは思う。
 本書の栞文(文庫版にも収録)で高野公彦さんが「非写実の歌」として挙げておられる六首も、確かに写実的ではないかもしれないが、どれも現実世界で起こり得ることを描写しているようにわたしには読める。その中から二首引く。

かぎりなく輝く空につっこんでゆきそうなバス 朝がささやく

 実際に「バス」が「空に」「つっこんで」いったわけではない。主体が「つっこんでゆきそう」だなと思ったのだ。そう思った時、「朝が」何かを「ささや」いたように感じたのだ。

おとがいを窪みに乗せて目を開く さて丁寧に問いつめられる

 「目」の検査だろう。眼圧の検査かもしれない。「おとがいを窪みに乗せ」る機材が発する光から、あるいは機材の向こうの医者や看護師から「丁寧に問いつめられる」と言われれば、あの手の検査は確かにそういうものだという思いが甦ってくる。いや、実際には初めて触れる感覚なのだが、共感をもって甦ってくるような実感を読者としてのわたしは感じる。
 鉄棒を回る女の子たちに遭遇した時、晴天の朝にバスとすれ違った時(乗っている時かもしれない)、目の検査で機材に顎を乗せた時、本書を読んだわたしたちは必ず、真夜中の鉄棒を思い、朝からのささやきを受け取り、丁寧に問いつめられるのだ。そして、本書のどの歌にもそういった力、すなわち東さんにはそう見えているのだな、と説得されるリアリティがある。〈一般的に見えなくてもいいけれど、見えるととてもよいもの〉が、東さんには見えているのだろう。それはあまりにも素敵なことだ。
 東さんの短歌の数々は、こうしてわたしたちの脳内で永遠に持ち運ばれることになる。少なくとも、わたしはこうして歌人・東直子の虜になったのだ。

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