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都電は走るもの/もちはこび短歌(18)

おばあさんがおばあさんに席譲るとき進んで都電荒川線は
川島結佳子『感傷ストーブ』(短歌研究社、2019年)

 数ヶ月前に初めて読んで以来、この歌のことをよく思い出す。ツボに入ると、しばらくこの歌のことばかりを考えてしまうこともある。
 興味は歌の後半にある。上の句にある「おばあさんにおばあさんが席譲る」行為も目をひくけれど、それよりも下の句へ入ってゆく「とき進んで」に胸騒ぎのようなものを感じる。でも、胸騒ぎの理由を説明できない。だから余計に思い出す。
 日々思い出すことによってわたしの脳内に定着し、この歌はいつの間にかもちはこび状態になっていた。短歌を読んでいるとそういうことは時々ある。わたしにとって、平井弘さんの「男の子なるやさしさは〜」の歌は永遠にその状態だと思う。
 『感傷ストーブ』を再読しつつページをめくっていたある日、この脳内への定着具合は、連作で読んだことも影響しているかもしれないことに思い至った。席を譲ったおばあさんが立ったときに、電車は動き出した。となると、揺れが心配だ。初読の際、わたしの心理にこういった動きがあったのではないだろうか。すると、次にこんな歌がある。

手すりにも摑まらず立つおばあさんの体重支えるくるぶしの骨

 おお、席を譲ったほうのおばあさんは健脚だったのだ! よかった。なんか爽快な気分にすらなる。電車が動き出すところを描写したことによって作られたドキドキ感を次の歌で回収しているのだから、連作としての並びがとても優れていることがわかる。でも、と思う。でも、わたしは回収の爽快さにやられてこの歌を好きになったのだろうか。
 いや、そうではないと思う。そこで、はたと気づいた。一首の先に続いてゆく時間を思うことよりも、もっと「都電荒川線」が発車した瞬間の無機質さがわたしは好きなのだと。とにかく運行されているという事実。おばあさんたちのやりとりがあることにより、電車は走るものだという無機質さが際立っている。だから、わたしはこの歌が忘れられないのかもしれない。
 わたしたちは、一首の歌を評価するときに、その一首に表れている心情や情景、物語などに重きを置きがちだ。それらは作中の人物たちや主体の感情の動きに紐づいている。でも、その中にふと感情とは無関係な、無機質で機械的な描写を見つけてしまった時、わたしは胸騒ぎを感じる。その無機質さもまた、人間が生み出したものだ。
 わたしは「都電」に乗るたびに、いつでも胸騒ぎを感じることだろう。いや、すでに乗り物に乗るたびに、発車の瞬間を味わうたびに、わたしたちは小さな胸騒ぎを閉じ込めようとしているのではないだろうか。

文・写真●小野田光

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「もちはこび短歌」では、わたしの記憶の中で、日々もちはこんでいる短歌をご紹介しています。更新は不定期ですが、これからもお読みいただけますとうれしいです。よろしくお願いいたします。

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