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用心棒の心得。

周囲で人が死ぬと、死んだ人間と自分との約束も契約も予定も何も意味がなくなる。
それまで築いてきた信頼や怨恨もどうでもよくなる。
いわば一方的に反故にされた形だ。
突き放され、路頭に迷わされる。
勝手に死なれたことで予定が狂い、そのことに抗議もできない。
人が人の間に生きるものである限り、こういう状況は何度でも繰り返される。
縁の深さも問わない。
世界中で絶え間なく起きているのも分かる。
だがあまりに多く味わうと、他人の死を何とも思わなくなる。
仮に死別しなくても、そこにある関係性を尊いとも思わなくなる。
この #アパシー が導くもうひとつの恐ろしい点は、結局のところ、自分の生き死にさえ、そんな死んだか生きているのかどうでもいい奴と同じように、なんとも思わなくなるということにある。
「そいつが生きられなかった分も自分が生きる」、だとか、「そいつの分まで人生を謳歌する」だのと考えるのは、別に深い仲でもない限り、いや仮にそうであっても単なる欺瞞で、自分が殺したのでもない限り、勝手におっ死んだ他者の死を、己のモチベーションにすり替える、むしろ不遜な思い込みですらある。
だから、所詮は誰もいつ死ぬかも分からず、吹けば飛ぶような生命など、捨てるように、元々死んだつもりで生きるのが一番いいという結論に達する。
だが、その考えによって、誰かの庇護や助力を必要とされるべきものを身を捨て、殴られようが刺されようが、自分をどうでもよく思いを深めるため、捨て身の #用心棒 精神が備わるメリットも生じてくる。
何もかもどうでもいい。
自分が生きようが死のうが知ったことか。
その #ニヒリズム が不動の立ち位置を作るのだ。
無論それは、害をなそうとしてくる側にも容赦してはならないということにも当然なる。
自惚れがない限りは、その結果自分が死ぬ可能性も生じる。
なればこそ、自分可愛さの保身野郎には、所詮至れない境地かも知れない。
そうなってしまった結果そうして生きてきて、その捨て身の心がたまたま続いてきた。
だがそんな薄氷、割れるのは時間の問題だ。
水に落ちた犬は笑われる。
助けられるなどと言う打算がないからこそ、破れかぶれで出来てきたことだ。
そんな訳で、自分を労う意味で書いておく。

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