うちのテツ
テツは、ツキノワグマみたいに胸に白い毛がはえた黒い犬だ。
足には白いくつ下をはいていて、しっぽの先がちょっとだけ白い。
テツは、保健所から連れてきた保護犬で、檻の真ん中で、きちんと“おすわり”してまっすぐに私をみつめる姿がとても印象的だった。
ほかの犬たちは、必死で鳴き叫び、出してくれと切なく懇願しているのに。
(その子たちの姿を、私は17年たった今でも忘れることができない)
テツは、助けてもらった恩返しのつもりか、張り切って番犬の仕事をしてくれ、ご近所さんからも人気の“うちの看板犬”となった。
でも、頭を撫でようとすると、ビクッと体を縮めて目をギュッとつむったり、水をとてもこわがり、雨が降ると、空に向かってずっと吠え続けたり。
なぜか大型車に牙を剥いて噛みつこうとするような変わった行動がいくつもみられた。きっと、とてもこわい思いをしたんだろうと思う。
それなのに、もっと恐ろしい思いを、あろうことかこの私がさせてしまうなんて……
あれは、2年前の寒い寒い冬の夜。
月があまりにキレイだったので、私はふらっと、家からすぐそこの海岸にテツと散歩に出かけた。
8メートル伸びるリードをつけて、岸壁を自由に嗅ぎ回るテツを横目に月光浴を楽しんでいると、テツが海に向かって歩いて行ったので、のんきに「おちるよー」と声をかけた次の瞬間!
「ドボン」
私はびっくりして、思わず持っていたリードの本体を手放してしまった!
海に吸いよせられるようにカタカタと音を立てて走るリードを、やっとの思いでつかまえて岸壁から下をのぞくと、テツが海の中でアップアップしていて、私は震え上がった。
あわててひきあげようとしたけれど、15キロの体重に加え、海面は3メートルほども下にみえる。
リードを買う時、ちょっとケチって、小型犬用を買ってしまったことを後悔したが手遅れだ。プラスチックの接続部分は今にもちぎれそうで心許ない。助けを呼ぼうにも、2月の寒空に、人影はない。
急いでポケットの携帯を…「忘れた!」
“ちょっとそこまで”のつもりだったから携帯は持たず、つっかけ履きで出かけてしまったのだ。
絶体絶命。
絶望的な気持ちになった時、ふと前日に見た『鬼滅の刃』の炭治郎が放った
「絶対諦めない!」というセリフが脳裏に蘇ってきた。
そうだ。私がやるしかない!
履いていた“つっかけ”を脱ぎ捨て、足を踏ん張り、力任せに手綱をひっぱった。
細いリードが指にギリギリと食い込み、熱くて指が千切れそう。
テツと一緒に海面が持ち上がり、海ごと釣り上がるような得体の知れない感覚。
大声で「テツー」と叫びながらのけぞるように後ろに倒れ込むと同時に、テツの体が海面から逃れた手応えがあった。
テツが岸壁に打ち上げられたのだ。
テツ!ああ、テツ!
駆けよると、テツはぴくりとも動かない。
無我夢中で冷たい体を何度も何度も、心臓マッサージをするみたいに必死で押し続けていたら、ゲホッと水が出て息を吹き返した。
泣きながら抱きしめて、抱っこして帰ろうと思ったけれど、「お、重い」。
水を含んだ体は重すぎて私にはとても抱えきれなかった。
このままでは凍死してしまう。
必死で「立って!」と口走った私の声に、思わず立ち上がったテツ。
「歩いて!」祈るような気持ちが通じたのか、よろよろと歩きだし、まさかのうちまでたどり着いたのだった。やっと我に返った私の手は震えが止まらず、リードで擦り切れて血が滲んでいた。
家に帰ると、まだ電気がついていて、娘たちがリビングでテレビを見ているところ。ふらっと出かけて行って、ずぶ濡れの犬とともに顔面蒼白で帰ってきた母親を見て、和やかな空気は一変。騒然となった。
「もし、ママが落ちていたらどうするつもりだったの?!」涙目で娘からめちゃくちゃ怒られた。そりゃそうだ。
そして、3人がかりでテツをタオルで拭いて体をさすってあたためてやった。
ごめんね、ごめんねと、何十回も詫びながら。
ああ、今思い出しても恐ろしい。
あれから2年たった今年の2月23日。
テツは家族に見守られながら旅立って行った。
17歳だった。
最期があの冷たい夜の海じゃなくてよかった。(お前が言うなと自分で思う)
あの時、手を離さなくて本当によかった。
昨年は炎天下に大脱走を企て、1.6キロ先の警察署で保護されたテツ。
(この話は、またいつか)
家族の心配をよそに“犬生“をやり切ったと言わんばかりのいい顔をしていた。
いつもどんなに寒い朝も、深夜でも、必ず起きて家族を出迎え、見送ってくれたテツ。これまで病院とはほとんど無縁で元気でいてくれたことも、本当にえらかったね。
テツ、ありがとう。またね。
今はまだ、考えられないけれど。
覚悟ができたら、ペットショップではなく、また保健所に行こうと思う。