「誰かのために」が本当に理想の目的?

「社会のためになりたい」
「誰かの役に立ちたい」

私はこういった目標が立てられる人がうらやましく思えます。
目的を決めたり、目標を立てたりすると、ある種理想像として「他者に向けた目標」というのが美的に思えてしまいます。

何かをする際の目的ないしはあるべき姿は自分のモチベーションとも言い換えられます。となると自分が本心で想っている内容でなければいけません。というより自然と想ったことが目的になるはずです。

私は仕事の目的を考えたり目標を考えても、現時点では自分を超えたところにある目標を立てられません。立てても本心から思えないためモチベーションにはなりえません。
この現実に「自分はなんて利己的なのか」「自己満で終わってしまう小さい人間だ」と思ってしまっていました。

しかし、他者に向けた目標が一番素晴らしいわけではないということに気づきました。
マズローの欲求五段階説はよく聞く話だと思います。
生理的欲求(生きたい)
→安全欲求(安全に生きたい)
→社会的欲求(誰かと生きたい)
→承認欲求(認められたい)
→自己実現欲求(何か成したい)

最近出てきたのが、自己実現欲求の次にもう1つ
「自己超越欲求(誰かのために~)」
という欲求です。

これらは各段階を飛び越えて感じることは出来ず、安全に生きれるようになったから誰かと一緒に生きたい、誰かと一緒にいたらその人に認めてほしい…段階的に高次な欲求になっていきます。
安全欲求段階にいるから低俗、自己実現の領域だから高尚なんてことはありません。その時の状況・段階にあった欲求こそ必要です。
自分が危機にさらされている時に「誰かのために!」なんて思わず早く逃げてもらわなければいけません。

こう考えると、自分は自己超越の段階に行っていないんだなということを客観視することが出来ました。
まずは自分自身の目的、自己完結でも良い目標を立てる。そのフェーズで自分が満足できなければ、本心から想える「他者のために」は偽善になってしまいます。

まずは自分自身が満足できる目的を考え、目標を立て、歩みを進めていく事で、自ずとその先が見えてくるはずです。

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