いまのあたまのなか
燃えたぎるような感情を持たなくなる事は成長か退化かをずっと考えているような気がするし、本当はそんな事とっくのとうにわかっている気もする。
熱い志を持てば偉いと誉められるのに、誰かを殺したいと思うほどの憎しみを持てば非難される事の方が多い。どちらも燃えたぎる感情である事は同じなのに。感情への良し悪しの評価はもうずっと前からやめた方がいいのにって思っている。どちらかをいいと言ってしまったら、つい言ってしまったらその対極にあるものをどうしても悪いものだと言ってしまわなければならないような気がするし。大人たちはみんな極端なことを嫌う癖に色んなことを二分化でしか考えようとしない。白か黒かのパレットしか持ってない人の絵をバカにするくせに、自分のパレットにも2色しか色は乗ってない、みたいな事が世の中には多すぎるんじゃないかと思う。
最近はどうにもならないような不安に飲み込まれる事はなくなったし、暗闇の中でも目を凝らして何かを見つけられるようになった気がする。例えるならば今までの不安は目を開けているのに本当に何も見えなくて不安でこのまま私は一生何も見えないのかもしれない、っていう気持ちになるような不安。今感じる不安は少し明るい場所で目を瞑っている感じ、なんとなく光は感じられる、みたいな不安。この二つは全然違うのに不安という言葉だけで簡単に表現してしまう事ができる。
言葉を使うって自分の中のことも外のこともどんどん固めていってしまうような気になる。けど私たちは言葉を使うことでコミュニケーションをとってしまうし言葉でもコミュニケーションを土台としてしまっている。E.T.みたいに指と指を合わせて君のこと全部わかったらいいのに、とか思う。でもわかってしまったらやっぱりわからない方がよかったなあってきっと思ってしまうとも思ってしまう。
生きているとどうしてもとりこぼしてしまう沢山の事を思って悲しくなったり、寂しくなったり。取りこぼさず生きていくことなんて不可能だってわかっているのに、可哀想だなんて思って涙を流したり、なんてやつだ、なんて怒ったりもしている。生きていく事はきっととっても簡単だけど、だから生きていく、という事はきっととても複雑にもなるし辛くもなる。本当の事っていつも辛くてひどくてしんどいんだとも思うけど、でもきっと本当は美しくて優しくてあったかいんだって気持ちも捨ててしまいたくはないよ。
こうやってつらつらぬらぬら書くのだって、私がなるべく取りこぼしたくないからっていうだけの、私による私のための私だけの文章だもん。自分の思ってる事をなるべくそのまま感情の動きや頭の中の動きをなぞって書くとこんなにもわかりにくくて的を得てなくて意味のわからない文章になってしまう。だけどきっとみんなの頭の中もこんなものなんだと思う。伝えるための言葉は人とのコミュニケーションの中だけで使ったらいいよ。この気持ちをただ残しておきたいなって時にはきっとこのくらいでいいよ。できてなくったって、ダメダメだって、これが本当なんだから仕方ない。たまにはそんなもんでいいと思ってしまうもん。