自分を人生の主役にした日。
積極的で、フットワークが軽い。声が通る。なんだか目を引く。黙ってても目立つ。
こんな感じの子でした。全く意図していないのに顔を覚えられる率が高くて、おとなになってからなんて、全く常連じゃないのに常連みたいな扱いが2回目くらいから始まる笑
目立つのに、目立つのが嫌いで、いつも心をガードしていたんですね。中学生の頃なんてほんと、めっちゃ斜に構えている子で、そのくせおとなの都合とか大っ嫌いだったから平氣で先生に正論ぶちまけたりとかwどっちかというと手の焼ける生徒だったと思いますww
おとなになってからは、人付き合いというものが必要になるから完全に使い分けていました。相変わらず斜に構えてたし、だけど仮面を被って、ということだったろうと思います。そりゃぁ疲弊するわw
チグハグの顕在化
一旦仕事から距離を置いて子どもを産み育て始めた頃からでしょうか。自分の中のチグハグしたものに自覚的になったし、ものすごく居心地が悪くなって。
”世間の”良きお母さんになろうとしてしまったことや、近所のママ友と仲良くなろうとしたこともわたしをしんどくさせていました。
さらに長男はお腹にいる時から先天性の障がいを持って生まれることがわかっていました。産後3ヶ月で手術をし、今では後遺症もなく何も問題ありませんが、それでも「生まれてくれただけで◎」という思いでした。だから、もう、『彼の人生を彼がめいっぱい味わってくれたらもうそれでわたしは幸せだ』って本氣で思っていました。
だけど親なんて勝手なもので。
そして愛しているからそうなるのだけど。
あぁなって欲しい、こうやって欲しいが溢れてきちゃうんですよね。
わたしもご多分にもれず。しかも教育熱心だったから質が悪かったww
だけどこれって多分、ほぼほぼ自分が達成・成就できなかった想いじゃない?
在りたい姿と、母親という役割をになっているわたしの今の在り方のチグハグは、わたしがわたしとして生きていないから起きているんじゃない?
そんな思いが湧いてきました。
わたしの中にあった自己犠牲
『彼の人生を彼がめいっぱい味わって生きて欲しい』それをするためにわたしを踏み越えていけ!って思っていたんです。
お母さんなんて踏み台にして行きなさい。って。
それはお母さんとしてだけじゃなくて、社会においても仕事のスタイルでも、わたしはそういうポジションをとってきました。目立つから。矢面に立ちたくないから。強いから(実際は強く見えてるでしょ、というだけなのに)大丈夫、と虚勢を張ってきた。
だけどある時、本当に踏みつけられた時があったんです。ほら、わたし強いから。大丈夫、行って、って。そしてわたしを踏みつけて、向こう側に行ったのを見て、わたしに湧いたのは
なんでこんな痛い想いして向こう側へ行かせなあかんねん!!!!!
という腹立たしさでした!
しかも
感謝もせーへんやんか!!!!
逆恨みまで湧いてきた!!
母親だからって、それは味わわないといけない痛みなんですかね?
確かにそうかもしれない。母親っていうのはそういう存在かもしれない。
だけどそれができるのは、真の奉仕の心でできるのは、自分を持っている人だけだと思いました。母親であることや父親であることは、関係ない。
45年間譲ってきた
痛さで泣き、屈辱感で泣きました。だけどそれは「本当はわたしが向こう側に行きたい」という本能的な想いが湧いたからだったと思います。
いつだってできる。いつでも示せる。
だからわたしはいつでも主役になれるので、どうぞどうぞ
と散々主役を譲ってきたんです。
「わたしはいいよ、先に行きなよ」と譲ってきた。
そして「大丈夫よ」と強がってきた。
で?お前はいつ主役になんねん?
自分が主役になるとはどういうことか
自分で選ぶ。責任をとる。
スポットライトを浴びる。みんなが見ている。
この現象を、ネガティブな面から見ると怖いです。本当に。何かあったらどうしよう、何て言われるだろう、って。
だけど、同じこの現況をポジティブに受け取ったらどうなる?
自由であり、個性的であり、いつだって自分を表現できていて、これから応援してくれるかも、あそこに仲間がいるかも!ありがとう!!!
この受け取り方の差は何の差か。
「わたしは自分を生きていく」と決めているかどうかだと思います。
人に余計な世話をして時間を潰し、本当にやりたいことを「できない」言い訳にしたり。
わたしこんなことできません〜って逆PRをしながら、本当はこれをやりたい!を察してもらおうとしたり。
誰かと比べて「あの人よりできている」ことをOKにしちゃって、自分の全力を出し惜しみしたり。
協調性、調和という名の元、自分のセオリーを引っ込めることに慣れちゃって「これを大事にしたい」って肚から出す声に蓋をしたり。
・・・・全部過去のわたし。
そんな自分だったけど、本当の自分と表現している自分の違和感を手に取りながら「本当のわたしはどうしたいか」を見つけて。
本当にしたいことはジャッジせず素直に行動して。
そうしながら「より自分を生きる道を選ぶ」と肚を決めて。
そしてやっと主役になることができました。
舞台へ上がる時、めちゃくちゃ不安でした。スポットライトを浴びた瞬間、すごく戸惑いました。初めて見る景色だったから。
意気揚々と上がったわけではありませんでした。
それでも、目の前にいる観客の眼差しは決して尖っていませんでした。「嶋田さん、これから何をしてくれるんだろう」ってワクワクして見てくれている人もいた。好奇の眼差しもあったけど、多分それはもう、わたしが「自分を生きる」ことを決めていたから、ネガティブには受け取らなかったんだろうと思います。
何より、そこに観客としてみんながいてくれることが本当に有り難かった。
これからその舞台で主役になるのは「わたし」です。
今までまっすぐ表現できなかったわたし。
積極的で、フットワークが軽い。声が通る。なんだか目を引く。黙ってても目立つ。
ずーっと否定してきたけど、わたしがわたしたる由縁であるわたし。
主役になって見えたもの
舞台に上がった時ぐぐぐぐぐぐーーーーーーっと根が張った体感覚が育っていきました。
そして「そこにいればいい。」という安心感を味わいました。
それこそが「何かになろうとするのではなく、そこに存在する」という感覚。自己肯定感に必要な安心感だと感じました。
「主役は黙ってたって主役だからな。名脇役は演じないといけないけどな」
そう教えてくれた人がいます。
マザーアースエデュケーションの松木さん!
誕生日が2日違いなんですよね〜(勝手に親近感)松木さんは男性だけど、わたしは松木さん女性版になりたい。
これからだって迷うこともあるし不安がなくなるわけじゃないけど、無駄な遠慮や思考にとらわれず、わたしを表現し切って生きたいし逝きたいです。
逝った時まで嶋田佑紀でいられたら最幸だ。笑