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『縄文夢通信』 渡辺豊和

 魔女の参考文献。視点が大きく持ち上がるような本のレビューを紹介します。半分はみなさんのため、半分は自分のため。自分自身のインプットを助けるために読んだ本を紹介していきます。アウトプットするために読むと入り方が全然ちがうのです。もし気になったらご自身で読んでみて、感じて、ぜひ自分の言葉でシェアしてみてください。

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【本日の本】
『縄文夢通信』 渡辺豊和

 縄文夢通信というタイトルに惹かれて読み始めたこの本には、わたしが気になるトピックがいっぱいだった。本当の縄文のこと、夢のこと、無意識を共有していること。わたしは「この世界は、人生は夢の中で死んだら目が覚めるよ」と子どもの頃によく話していた。それと同じようなことがこの本の序盤に書かれている。

 ユングは夢の中で、結跏趺坐を組む一人のヨガ行者と向き合っていた。そして、その行者の顔を見て、それが自分自身であることに気づき、深い恐れを抱いて目が覚めたというのである。
 ユングはそのとき、「ああ、彼が私について黙想している人間だ。彼は夢を見、私は彼の夢なのだ」と感じ、彼が目覚めるときには、私はこの世に存在しなくなるということが自分にはわかった、と記している。
 ユングの確信は、日常に目覚めている自分は、深層に眠っている自分にとっては夢の存在であり、死とはその自分が深い眠りから目覚めることなのだ、という動かしがたい直観に基づいている。そして、ユングのいう深層とは、私たちの無意識のそこに抱え込まれた、人類史のすべての記憶に連なり、すべての人類の意識に連動している、広大な意識の原野である。
 ユングにとって、夢は現実であると確信されているのだ。

 ところで、最近わたしは眠っている時に見る夢を分析しはじめた。すると、見る夢がだんだんと変わってきたような気がする。

(2月1日)動物園のキリンを見ている自分の視点が上へ下へ、斜めへ。それによってちょうどいい場所に視点がカチッとあう音がする。どういう意味?と聞いてみると「認めることを許す」「受け入れることを許す」と声が聞こえた。

(2月6日)学校のような場所で縄文について学ぶ。わたしは個性的なドレスの作り方の演習を受けた。可愛いランチョンマットにコーヒーをこぼした。不吉な予感がして、授業を選ぶのを躊躇した。最終的にはサソリに関する授業を選ぶ。土器のようなポットを作る。丸くて蓋がついていて可愛い。

 (2月9日)首の下、背中がカシャッと開いてそこにMD(懐かしい!)を入れる。

 メモを取ってみるとそのバリエーションと不思議さに驚く。覚えていようと思わなければほとんどがすぐに流れていってしまうものだ。そして、今メモの状態で見ているものとわたしが実際に見たものは違う。なぜなら、夢は本当は言語化できない領域のもので、全身、五感を使って感じとるものだから。言葉以上の、というか、言葉を超えた情報が夢の中には含まれている。それは情報ですらないのかもしれない。わたしが眠っている間に戻っていき、調整されるための場所のような気もする。

 記録している夢にはよく「上昇」「下降」が出てくることにも気がついた。そしてその多くは「のぼりたいけれどのぼれない」というものだ。エレベーターに乗っても邪魔をされる。ぐんぐんのぼっていく途中で足止めされる。この夢を「みること」と「わかること」は別の能力であると思う。わたしはその読み解きがまだ未熟であると感じるけれど、その関連性とか、繰り返しとか、ひらめきとか、そういうものが少しずつ繋がって大きな物語を作っていることだけはわかる。夢に現れるのは必ずしもわたしが今日1日のうちで感じたこと、登場人物、見たもの聞いたものだけではない。その姿をしていたとしても、それは象徴でありシンボルだ。夢の世界を直接みることは可能だろうか?それとも見える世界の表現を借りてしか、夢の世界を見つめることはできないのだろうか?その現象は人それぞれだとしても、根元には世界中に共通したなにかが広がっているような気がする。『縄文夢通信』の中にもこんな解説があった。

 それはさておき、ユングに従えば夢は心の深層への旅であり、深層は個人を越えて人びとの間に連動するものであった。私もこの考えをとるものであるが、そうだとすれば、大王たちは固有な夢世界の中で固有な情報を得ていたのではなく、一つの共通な夢世界から、共通の情報を得ていたことになる。つまり、深層で見る夢は、もはや個人夢ではなく、集団夢となるのである。
 結局、大王たちは天井の世界を共通に集団夢として見る。ことばをかえれば、天井の夢世界へそれぞれの魂を旅立たせて入りこむのである。ただし、それをどれだけ十分に行えるかには、能力の差があったろう。そして、その中で最大の能力を持った大王の活躍が投影されて、スサノオという神が生み出されていったのではないかと思われる。

56ページ

 フロイトとユングの大きな違いは、フロイトは夢が個人的な無意識であると言い、ユングは集団的な無意識があると主張したところだ。わたしは個人的にはユングの説に賛成で、集団の夢というのが存在していると思う。だから、誰かと同じ夢を見ることは可能だし、夢の中で、夢を通して連絡をすることもできる。電話やメールがない古代では夢を通して情報をシェアしていたらしい。「石」や「山」も重要な要素になっていて、日本の土地で有名な山や神社(奈良の三輪山など)はそのヒントになっているという内容も興味深かった。

 本の中では「自然と一体化する右脳的思考によってもう一つの現実世界を感じることができる」という紹介もされていて、これも個人的にとても納得できる内容だった。わたしは散歩をしながら景色を見る。その時、頭の中のおしゃべりをなるべく止めて見るものをそのままただ見るという練習をしている。例えば自動販売機を見てそれが自動販売機だとわかるのは、わたしの中にその概念があるからだ。それをどんどん少なくしていく。ジュースが入っている機械だ。何かが入っている箱だ。四角い何かだ。最終的には「何かだ」という事になる。本の中にも全く同じようなことが書かれていて面白かった。そしてこれが右脳のための訓練だったことがわかって、自分の直感をたのしいと思った。速読も、概念を引いていくことも、わたしの右脳を鍛えてもう一つの現実とのコネクションを強くすることに役立っていた。

 要するに「対象をあるがままの姿で素直に意識に受け入れる」ということなのである。たとえば、椅子をみても、「あれは座るための家具だ」とか「モケット材質のものだ」とか「応接間用だ」とかの意味的な視線を一切排除して、とにかく「こういう形のこういう色をしたもの」としてそのまま見てしまう、ということである。
 これがかなりできれば、環境を丸ごとまとめて意識にブチこむことは容易にできるはずなのだ。そして、それは訓練によってもかなり可能となるが、根本的には外の世界=自然と一体化したいいう強い欲望が自然に湧いていることが必要なのである。
 これは、子どもであるほどやりやすい。つまり、まだ自然と未分離な意識を持っている小さな子どもは、現実にそうやって生きていると思われるからだ。速読術の達人のほとんどが小学生に集中していることからもそれはいえると思う。
 でも、大人でも努力しだいで十分にできることである。ただそのためには、自然=宇宙との一体化意欲を今まで以上に持つことができなくてはならないのである。
 こうして右脳的な能力が活発に働くようになれば、もう一つの現実世界との出会いを容易に持つ道が開かれるー私はそのように思っている。

233ページ

 もしかしたら、この本に出会ったからいろいろなことがわかったのではなく、いろいろなことがわかったからこの本に出会ったのかもしれない。時系列、順番も脳が作る概念であって、本当は順序も時間も存在していないのだし、わたしに起こることは全て繋がっていて、意味づけることができる。それは意味づけないことによって閃きになることもあれば、全く違う場所から、あるいは夢から、アイディアとなって現れることもある。わたしの夢は以前よりももっと明晰になった。夢に興味を持ったわたしはいまオーストラリアのアボリジニの人たちの「ドリームタイム」について学んでいる。彼らもまた世界は夢の中だと認識し、その夢を感じる力を大切にしている。こちらもまとまったらまた記事にしたいと思っている。

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