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新規就農物語⑧〜就農1年目〜

新規就農を目指す方向けに綴り始めたこのシリーズですが、各方面から感想を頂き本当にありがたく思います!

自分自身、この投稿をし続けることで心情の変化がものすごくありました。このシリーズが終わったら、今の自分が目指すべきことを綴っていきたいと思っています。

さて、いよいよ沖縄から新潟に帰ってきて就農に向けて動くところから。

ここで注意ですが、このシリーズでは自分の全てをさらけだすつもりで書いていますが、さすがに言えないことも多々あります笑

その辺はご了承くださいませませ。

まだ沖縄にいた頃、親からの継承ではなく新規で農業を始める、いわゆる新規就農者には5年間継続的に補助金がもらえる制度があるという情報が入ってきたため、帰ってきてまずその申請から始めました。

当時は、【青年就農給付金】という名目の補助金でしたが、今では【農業次世代人材投資金】というのだそうです。

申請内容は、まずは自分が農家として必要な用件である50aの畑を正式に借りて農家としての資格を得ること。

そこから5年間の作付け計画や収支計画をあげてその申請が通れば年間150万円が国からいただけるというものです。


ここだけの話(本当にここだけの話ですよ!?)農協は収入は安定してるのですが、低いところで安定しているので、貯金なんて全然できませんでした。

だから貯金ゼロ。

沖縄でのバイト代は日給5,000円(死ぬほど働いて)。

そのお金のほとんどは健康保険料やら当時タバコを吸っていたのでタバコ代、飲み食いのお金で消えていましたからプラマイゼロ。

5年も農協に勤めていなかったので、退職金なんて微々たるもの。

伊江島から沖縄本島で遊んだ時にそのほとんどがなくなりました。


すみません。話がなかなか農業の話にいかないのですが、本当に貯金とかに興味がなくて、あればあるだけ使うという性格で、結婚するまで通帳にお金が入っているのなんて給料日くらいだったんです。

お金なんて貯めてもしょうがない!楽しいことに全部使うんだ!!

ということで、農業を始めた頃は貯金ゼロ。

本当にゼロ。

いや、むしろ大学で奨学金を満額借りたのでマイナスからのスタートでした。


「農業を志す人へ」みたいな冊子とかネットのページとかを見ると、必ずそこに書いてあることは、

農業は収入が安定しない職業です。1年間の生活資金は確保しておきましょう。

です。

いやいや、ないから。早く言ってよ。

と思いながら心のどこかで思っていたことはこれ。


俺なら大丈夫でしょ。


もう、自信しかなかったんです。

技術なし。お金なし。機械なし。

ここからスタートしたんです。


これだけを聞くとめっちゃ希望が持てませんか?

でもね、


絶対真似するな!お金は大事だぞ!!


これだけは声を大にして言いたい。お金がないって本当に大変なことなんです。(わかってると思うけど)


当時、自分は梨農家を目指していて、就農2年目に梅畑を借りて7月に梅の収入が、9月から12月まで梨の収入が入ってくるという計画でした。


はい、お察しの通り半年間は経費ばかりがかかって収入ゼロなんです。しかも沖縄から帰ってきたのは7月の半ば頃。超ありがたいことに先輩が梨の剪定をしてくれていたので、収入はある!

でもその時借りていた梨畑はなんと10aしかなかったので、今年の就農の見込みはその10aの梨の収入だけ。

震えるよね。

じゃあ収入のサイクルが早い野菜を作ろう!なんてことにはならないのです。

なぜかって、機械買うお金ないんだもの。

もっというと、肥料・農薬・種すら買うお金がないんだもの。


絶体絶命!


結果、その20000円の家賃すら滞納する月が出てくる始末。

電気はガスとりあえず1ヶ月1回は止まる。

最終的に水道代も止まっていつも水道局まで払いに行っていました。


どうしようもないから、山○パンの深夜バイトを始めます。

昔から仕事の要領はよかったんです。何の仕事をしても人よりも速く仕事をこなすことには自信がありました。

そのバイトの初日、流れ作業の仕事を任されたのですが、自分が入ったラインがその工場の長い歴史の中で最速記録を叩き出す。

結果、自分と同じバイトが早々と帰っていく中、自分は次ここもお願いということで残業を頼まれることになり、夜9時から翌朝6時頃までパン屋のバイトをして、そのまま寝ることなく畑へ出る。

それが3日続いて、バイトから逃げ出しました。


ということで、またしても収入ゼロ生活に後戻り。

そんな時に声をかけていただいたのが農協でのバイトのお仕事だったのです。

一番最初に行ったのは、梅の選果場のお仕事。

その梅のバイトで梅干し屋と知り合い、梅のバイトが終わると今度はその梅干し屋のバイトに行くことに。

それが終わると今度はまたしても農協の米の倉庫番のバイト。

それが終わるとまたまた農協の梨の選果場のバイト。


という風に、日中はほぼ農業の仕事ができずに、自分が生きていくために食いつなぐ生活をしていたのです。


でもここで大事なことは、

・自分のわがままとはいえ農協を円満に退職できたということ。

・退職する前に自分の課だけではなくて横の繋がりも持っていたこと。

・農家さんと仲良くさせていただいていたこと。

これです。


縦の繋がりが強いサラリーマンですが、横の繋がりを持っていたことで本当に困った時にいろんな先輩方が助けてくれました。それがなかったら本当にあの時に農業はとっくに諦めていた…というか、確実にできなかったと思います。

そして、農協時代に農家さんと仲良くなっていたこともすごくよかった事で、まずはどこかに土地が空いたらすぐに声をかけてくれたりとか、何も機械を持っていない自分に無償で機械を貸してくれたり、それどころか飲みに行こうと週1回ペースでお寿司をおごってもらっていました。(超貧乏なのに回らない寿司しか食べた事なかったです。)


何をするにもそうなのですが、人との繋がりを経っては何もできないし、人との繋がりを満足にできない人は、いざ困った時に自分のチャレンジを諦めなければ行けない。

当時はそんなことを思う余裕なんてなかったけど、今になってそう思います。

だからこれから就農にチャレンジする方は、とにかく自分が農業をしたい地域を見つけてそこに住む。そこから始めてみるのがいいと思います。

いや、たぶん農業に限らずにこれから何かチャレンジしてみようと思っている方は「現地の人化」が一番最優先するべきことだと思いますよ。


今一度言いますね。

技術なし、お金なし、機械なしだった人間が今では農業だけで普通の生活を送れていて、しかも奥さんと子どもがいるんですよ。

※でもお金があった方が絶対に楽だよ。


さぁ、ということで沖縄から帰ってきてからはほぼ農業をしていないというお話でした。

そんな生活を送っている最中に自分にとっての女神(奥様のひかり)が現れるのです。

そのお話はまた今度。

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