価値を見出す
人生に価値はない。ただ人生に価値を見出すことはできる。これは全てのことに言えるだろうが、価値とは個人の解釈である。では解釈とはどのように行なわれるか。それは心の動きによってである。心とは複雑なもので、心それ自体が過去の経験、記憶によって構築されており、心は常に記憶に基づくことで目の前の現実を解釈している。この解釈とは言わば思考、思想であるが、これを可能にするものは個人の知恵であろう。価値を見出すことは知恵によって可能となる。知恵とは経験と思想の賜り物である。経験の記憶が思想を深めて、目の前の世界に価値を見出す。その自然な動きこそが知恵である。
小林秀雄が当麻でロダンの言葉を引用して、自らの言葉で次のように言っている。
「美しい花がある。花の美しさと言うようなものは無い」
価値とは認識の問題であるが、その認識は自らの心に基づく価値観による。それは言わば心の目とでも言おうか。その心の目を発達させることこそが、人生の楽しみではないのかと私は最近考えているのだ。人生それ自体に価値は少しもない。だが人生に価値を感じられないのは絶望的であろう。何のために生きているのかが分からない。そのような心的状態にならないためにも心の目を磨く必要があるわけだ。
心の目とは経験によって自然と養われる。そのように考えると、価値を見出すためにはとりあえず行動してみることが必要であることが分かる。ここにおいて認識と行動の絶妙な相互作用の存在が把握できるのだ。行動がなければ認識もなく、認識がなければ行動もできない。心の鍛錬には肉体が必要だ。両手と両足を動かして多くのことを経験することが必要だ。そうすれば自然と記憶が深まる。記憶とは解釈のための道具でもある。何故なら私が思うに理想的な価値観とは、四方八方から観察する対象を認識して、その切り取った世界を認識の数だけ再度、組み合わせて再構築し、観察する対象の新たな姿を見ることで、自らの思想を深める行為であるからだ。だからこそ価値を見出すためには、普段からの知的好奇心が必要となる。知的好奇心は経験のための良い材料となるだろう。だからこそ私は知的好奇心こそが、豊かな価値観の源であると考えているのだ。
人生は価値など全く持ち合わせていない。それに価値を見出すのは言うまでもなく人間自身だ。
価値とは無限大である。その無限大の宇宙的な神秘さにこそ、人間の自由がある。そしてその自由にこそ全ての人間が尊敬に値する平等的な存在であることの証明となるのだ。
私達は自由だ。私達はかけがえのない存在だ。個性とは素晴らしいものだ。そう思わせるものは、私の心にある目である。この目と共に価値観は発達する。
自らの心を感じることができれば、全てのものに価値が見出されるだろう。そして良さも悪さも同様に価値だ。価値がないことも価値であるし、それを測る尺度の質こそが心である。だからこそ自らの心の動きを大切にすることにこそ人生の意味があるのだ。世界は私によって価値を生み出す。私はそのような心の偉大さをずっと信じている。