エッセイについて

 私は高校生の頃からずっと小説家を目指してきた。今だって作家に対する憧れはある。いつの日か立派な小説を書いてみたい。そんなことを考えてはいるのだが、自分は何故かずっとエッセイばかりを書いている。そして小説の創作はちっとも進んでいない。呆れるような話だが、その理由は明確である。それは私の思想が小説ではなくてエッセイを求めているからである。小説を書くには小説でなくては表現できない思想が必要であるが、私にはそのような思想の持ち合わせがないのだ。そして私の思想は恐らくエッセイとして表現するのが最も適しているのだろう。そのために私はエッセイばかりを書いている。それはそれで誠に幸せなことなのだろう。


 私が思うにエッセイとは、ありのままに心情を文字で告白する行為である。エッセイには登場人物は必要でない。言葉を語るのは常に自分自身である。そのためにエッセイとは告白文学の一種であると私は考えるのだが、エッセイは手紙や日記と同様に自分の声を紙にしたためる必要がある。そしてその瞬間、私は自分の心に浮かんでいた思考や感情、思想にはっきりと気付くことができるのである。エッセイとは音楽の即興曲に似ている。好きな音色を奏でて音を楽しむが、そのメロディの楽しみは音色が響くまでは分からない。エッセイもそれと同様で、書いてみるまで何ができるかは分からない。エッセイを書くために綿密なプロットを用意する者はいないだろう。それはエッセイという形式の持つ自由さによって可能な魅力の表れである。エッセイは自由だ。ありのままに心情を歌えば良い。すると私の心情がメロディと鳴って自由気ままな音色を響かせる。私はその小作品を通して自らの心を知ることができる。言わば一種の自己分析だ。この一連の流れがエッセイにおける楽しみだ。エッセイには自分を知る楽しみがある。もちろん自分を知るためには、自分と他の存在が必要である。他者の観察が自らの心を知るための起点となるので、エッセイとは他者を観察して自らを知ること、他者に自らの心を預けて自分自身を表現することである。そのように考えると、エッセイにしかない楽しみに心が舞い踊る。


 私は作家に憧れながらもエッセイばかりを書いているが、きっと自分はエッセイが非常に好きなのだろう。今だってエッセイを書くことに多大なる幸福を感じている。私は世界を見て心で感じたことを、大きな声で自由気ままに歌う。その楽しみを可能としてくれる他者の存在に感謝して、今日も自らの心情をエッセイとして表現したい。エッセイが偉大なる告白文学であることはまず間違いないだろう。

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