美術鑑賞について


 二〇二一年の年末にあべのハルカス美術館に行った。大阪市立美術館に行ったついでに、同じ天王寺で催されている「コレクター福富太郎の眼」展に寄ったのだ。どんな絵が展示されているのかも殆ど知らなかった。だがメトロポリタン美術館展の入場券があれば、どうやらコレクター福富太郎の眼展が百円引きになるらしかったので、私は美術鑑賞にどっぷりと浸かって日頃の疲れを癒そうと考えたのだ。
 展覧会で最初に展示されていたのは鏑木清方の絵だった。そして驚くことに、この展覧会の出口まで私の頭を支配したのは鏑木清方の絵だったのだ。どうやら福富太郎という人は、鏑木清方の絵の熱心な収集家だったらしい。更に本人とも面識があったらしく、自分が集めた絵を作者自身に披露していたという。そういったわけで、展示会の最初には、鏑木清方の絵が十点ほど連続して並んでいた。私は恐らく初めて直接、鏑木清方の絵を見たのだが物凄く感動した。特に銀世界という絵が良くて、もう自分はその絵を眺めているとき、微動だにもできなかった。銀色の雪が広がる世界に、新橋色の上着を被った日本髪の女性がうずくまっている。女性は茫然と下方を見つめていて、何やら考えことをしている様子であるのだが、私はまるで夢に出てきた見知らぬ女性に憧れて、叶わない初恋を覚えた少年のような、甘くて切ない夢心地を抱いたのだった。


 美術館で絵を見て感動する瞬間は、殆どが直感から生じるものだろう。感動することに理知は殆ど必要ではなく、ただ美しさを直感で感じ取るだけで、心を大きく動かすに足りるだろう。私は鏑木清方の絵を見た直後に、周囲の人が全く見えなくなってしまった。もう目の前の絵以外は何も見えない。私はただ絵を見て、恍惚とするだけだ。これこそが感動をするということなのだろう。絵を見てその美しさに心が動かされるとき、人はただぼーっとすることしかできない。美しさに感動するために知識や思考は必要ではない。展覧会における絵の解説なども殆どおまけみたいなものだろう。美術鑑賞において最も大切なことは見ることだけだ。後は自らの直感に任せれば良い。もし絵が美しいものであるならば、私の心は大きく動く。この感動の瞬間に対する喜びこそが、美術鑑賞における楽しみだろう。美術鑑賞の楽しみは感動の喜びだ。感動するということは、自らの魂を感じるということだ。美を感じれば魂が震える。そして己の魂を感じることで、私は本当の私というものを知ることができる。何故ならば自らの魂こそが、本当の嘘偽りのない私自身であるはずだから。魂に偽りなどはない。だからこそ感動をしている瞬間こそが偽りのない私なのだ。そんな自分に触れる楽しみが、美術鑑賞にはある。だからこそ感動するということにこそ、美術鑑賞の良さがあるのだろうと私は思う。

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