地元で3番の店が生き残れる社会
町の中の八百屋は、大きなスーパーとかに比べるとちょっと高い。
なのでなかなか、そこで買おうと思わなかったのだけれど、
最近、そういう、大手に比べると劣る小さな店で買わなければならない、と思う。
それは、社会の一員として何かを生産し、サービスする立場にある
自分自身を生かすことにつながると思う。
「全ての人が活躍し、居場所のある社会へ」というようなスローガンをよく見るけれど、
これは逆に言うと、今の社会で居場所のない人が増えているということだ。
私自身、自分の居場所がなくなるのではないかという恐れを抱いている。
それは、「何らかの生産・サービスにおいて世界のトップではない全ての人」の居場所がなくなるのではないかと思うからだ。
町の中の個人商店やを見ていると、そう思う。
生産と消費の場が、町とか村とか、小さなコミュニティで完結していた時には、
その中でトップレベルであれば営んでいけたし、
ナンバーワンでなくても、近所にお得意さんが多いとか、
なにか突出した良い商品が1つあるとか、
そういうことで業(なりわい)として成り立つことができたのではないだろうか。
消費する側も、世界トップレベルのものや、日本トップレベルのものを手にいれるには、都会に行く必要があったり、いろいろ困難だった。
なので、町の中の小さな店がきちんとなりたっていた。
しかし、ネット通販ができたり、遠く離れた土地のものが簡単に手に入るようになって、
競争相手が日本レベル、世界レベルのものになっている。
すると、それまでコミュニティレベルで成り立っていた事業はどんどん、
大手チェーンや世界のトップ企業に取って代わられる。
「シャッター街を再生しよう!」みたいな活動は、過疎化や高齢化が深刻な問題になっている場所ではよく行われている。
本当の問題は、ある程度の賑わいを保ったまま、チェーン店だらけになっていく中規模の町でも起きているのではないかと思う。
ぱっと見、チェーン店ではない店も、経営母体を調べていくと実はみんな同じ会社、ということもある。
町が賑わったまま、小さな店を失っていくことは、問題ではないのか?
それは、地域の価値観が、コミュニティ単位の物差しではなく、
国、あるいは世界単位の単一の物差しではかられるということだ。
コミュニティに即した小さな店がなくなり、
大きな店、大きな企業での消費を余儀なくされることで、
消費者とコミュニティの側の生活スタイル、さらには価値観も矯正される。
トップレベルのサービスを提供し、消費する巨大な構造の、いち構成員になる。
これは、コミュニティを構成する住民のライフスタイルや考え方も、
国、世界レベルで画一化していくということだ。
消費者として、あえて地元の小さい店を利用することは簡単だ。
でも、生産者として「トップではない私たちが生き延びる権利」を主張してもいいのではないかと思う。
消費者と生産者双方が、トップレベルではない、品質の低い、「地元レベル」のものによって業を営む行為を認めること…
低品質、低コスパ、低サービスのものを消費社会の中できちんとまわしていくことがコミュニティを守るということを、
消費側、生産側双方が意識するべきではないか。
これは、品質を高める、進歩すること自体への否定ではない。
真剣に何かをつくる以上、今日より明日を良くしようという姿勢は当たり前だ。
でも、世界トップレベルのものと肩を並べられないと淘汰、というのはあまりに過酷だし、コミュニティの多様性を殺すのではないかということだ。
だって、世の中、世界や業界トップのものを作る力はない人が大半なのだ。
そういう人がみな、画一的な価値観の構成員になろうとしている。
なぜ、障害者とか、病人とかが、自分のペースで働く権利を主張するように、
トップでない生産者が自分のペースで成長する権利を主張できないのか。
地元でいちばん、地元で3番でいい、そういう生産者が生きていける消費社会なら、
私自身も社会の一員として胸を張って生きられそうだ。