見出し画像

新興宗教だけじゃない、クリスチャン2世として苦しんだ子供時代の話

実は私も「宗教2世」

これは、あまりにもトラウマで思い出したくなく、普段はどんなに心を開ける友人にも、パートナーにも言わない話です。でも、ずっと心の奥底で苦しくて、悩んで、葛藤していて、あまりうまくまとめられるか分からないのですが、一回気持ちを整理してみよう、との思いから、記事にすることにしました。

完全に個人の主観なので、そういうこともあるんだ、という感じで読んでいただけるとうれしいです。

まず、現在、私は「無宗教」です。
厳密には違うのかもしれないですが、恐らく多くの日本人と同じような感じで、他人の文化や価値観を尊重するという観点から神社仏閣に頭を下げたり、お焼香したり、教会の結婚式に出席したり、観光地のモスクに赴くことはあります。でも、基本的に神はいない、いるかもしれないけど、神の存在に構おうが構わないが私は私で自分の人生を考えて頑張らないといけないのだから、どうでもいいというスタンスです。

でも、そんな私はクリスチャンホームに生まれたんです。
お母さんのお腹にいる時から、20歳くらいまで教会に行かされていました。

一応、世間一般で言われる「新興宗教」というものではありません。統一教会、エホバの証人、モルモン教などではなく、「プロテスタントのキリスト教」です。

教会なんて日本中、世界中にいっぱいあるし、誰もが知る伝統の深い宗教、普通でしょ?と、思われるかもしれません。実際、キリスト教自体、聖書自体が一概に悪いわけではないと思っています。人を殺さない、盗まない、優しくしなさいとか、どう考えてもその通りということもたくさん教えられています。

でも、私は苦しかった。
なぜか?
結局、宗教を取り仕切るのは「人間」だからです。

何千年も前に書かれた古い本、しかも原作は外国語、時代を越えて語り継がれていく間にその語り部の解釈が入り、翻訳される際にはその翻訳者の解釈が入り、さらにそれを語る牧師もまた独自の解釈をします。それを聞く各個人もまた、自分にとって都合の良いように解釈するのです。結果、形成されるのは、「個人の価値観」。そう、宗教は「価値観」なんです。

そもそも、人それぞれ価値観は異なるものだし、うまくお互い尊重し、妥協しながら社会は回っているのですが、無理やり自分の価値観を相手に押し付けようとすると、おかしくなってしまします。宗教に熱心な人は、それを「価値観」ではなく、「全世界共通の唯一無二の真実」として捉えているので、周りとの溝が生まれがち。

まあ、各々の幸せが1番なので、大人であれば周りに迷惑をかけなければ好きなことにいくらでも没頭して、価値観の合う仲間だけに囲まれて楽しく幸せに過ごせるのであれば全く問題ないのですが、そこに生まれた子供はどうでしょう?

もちろん、生まれたばかりで小さい頃は、家に放置して教会へ出かけたらそれこそネグレクトですし、連れて行くのも仕方ありません。でも、物心ついて、自分の意思が生まれ、留守番ができるような年齢になってからも、その宗教を「全世界共通の唯一無二の真実」として刷り込まれ、それが当たり前のこととして生活し、教育して、それ以外に生きる道を見せないのは、精神的虐待になり得ます。

※「なり得る」というのは、もちろん、親と似たような価値観を持って、その後幸せに生きれるのであれば、問題はないですし、心の底から熱心に信仰している2世の方を否定するつもりはありません。

私が実際、子供時代どんな生活をしていたのか、まとめてみます。教会や家庭の方針によってこれより厳しい、緩いなど様々なのでこれがスタンダードではないと思いますが、あくまでも私が置かれていた環境のお話をします。

毎週教会に行かされる

日曜日丸一日 - 日曜学校、礼拝2回、チラシ配り

まず、日曜日は毎週、綺麗な服を着て教会へ行きます。男性はスーツ、女性は入学式や卒業式コーデのようなイメージです。ジーンズにTシャツなんて、子供でも許されません。

朝8時頃から日曜学校、10時から普通の礼拝、終わったらそのまま昼食(持参したお弁当)を3階で食べて、午後は周辺地域に教会のチラシを配りに出かけます。子供でも親に連れて行かれます。帰ってきて、夕方からはもう一回、夕礼拝というものがあります。丸一日拘束され、自由時間はほぼありません。

この日曜日は、どういうわけか本当に絶対で、学校や幼稚園のイベント、親戚の葬儀など、世間的には十分休めるような理由があっても出席させられました。風邪をひいて熱があった時も、インフルにかかっても、午前中の礼拝だけは後ろの方の席に座ってまで出席。(コロナ中どうだったのかは知りませんが…)

日曜日に練習や試合のある運動部や吹奏楽部は、入らせてもらえませんでした。田舎だったので中学校に文化系の部活がそこまでなく、教会の子どもたちは帰宅部が多かった印象。

私は子供だったので関係ありませんでしたが、出産などのため入院している方には、日曜日の午後に教会員が数人、見舞いに行き、病室で「ミニ礼拝」笑 歌ったり、聖書を朗読したりしていたようです。個室ならいいかもしれないですが、まあ周りの患者さんたちにとってはいい迷惑でしょう…

仕事はそもそも、日曜日に仕事がある職場には就職するなと言われます。転職した人もいるようです。たまに休む人もいましたが、結構牧師からぐちぐち言われていました。

ずっと疑問だったのですが、日曜日に礼拝をするにも電気やお水が必要で、そのために電力会社や水道会社で働かないといけない人は必ずいるのに、自分たちだけはインフラ系を含め、日曜日に仕事をしませんって、全然平等なルールじゃないですよね笑 オリンピックやW杯も応援しますが、そこに出ている選手達は幼い頃から土日返上で練習や試合を重ねてきた人たちであり、聖書的にそれが間違っていると主張するのであれば、手放しで応援なんてできないはず。

そういう矛盾がたくさんあるのも、宗教が人間が考え出したものである証拠だと思うのですが、それでも理由をつけて納得してしまう人間心理って奥が深い…

水曜晩 - 祈祷会

あと、水曜晩の祈祷会は、日曜日ほど出席の縛りがきつくはなく、仕事があれば休んだり遅刻したりというのも許されるような感じでしたが、子供は学校から帰ってきている時間帯なので当然出席。夜8時から10時くらいまで、眠くなるので行く前に昼寝をさせられます。それでも祈祷会中に寝るとぶっ叩かれてめちゃくちゃ怒られます。(あざが出るほどの虐待はありませんでしたが、お尻を竹刀で叩いたり、ゲンコツを喰らわせたり、ほっぺをつねるのは正当化されていました。昭和のまま時が止まった感じでしょうか。)礼拝中、牧師から講壇の上から名指しで怒鳴られたこともありました。

私は、中学生の時、行きたい公立高校があったのですが、少し家から遠く、帰宅が祈祷会に間に合わないかもしれないという理由で反対され、行かせてもらえませんでした。「まだ高校生なのに祈祷会を休ませるなんてできない。」とはっきり言われました。大人は仕事で休めるのになんで?未だにどういうことだったのかよく分かりませんが、教会の上の人から私の親が何か言われるような雰囲気だったのだと思います。(私の親は、子供に対しては偉そうにしていましたが、教会では立場が低い方でした。常に周りの目を覗っている姿が気に食わなかったことを覚えています。)

土曜午後 - 掃除

せっかくの週末、でも土曜日すら完全に自由とは行きません。
午後になると教会に連れていかれ、掃除をさせられます。礼拝ほど拘束力はありませんが、原則参加です。清掃員でも雇えばいいのにと思いますが、まあ「ボランティア」ならタダですもんね。大人になるとそういうことも分かってしまう。

中学生の時、ある金曜日に飼っていた犬が事故死してしまいました。あまりにもショックで、たくさん泣いて、翌日、土曜日はとてもではないですが、何も手につくような状態ではありませんでした。両親も犬は可愛がっていましたが、そんな状態でも教会の掃除には連れていかれました。神に仕えることで「祝福」されるという信念のもとです。

まあ、掃除自体は良いことですし、しっかりと掃除できる人間になるよう教育されたと思えばありがたいのかもしれません。でも、日曜日は拘束されるんだからさすがに土曜日くらいは休ませてほしかった…休息こそが最大の祝福ではなかろうか…

日常生活の制限

観てはいけないテレビ、映画

まず、ハリーポッターとセーラームーンは一切禁止でした。魔法は偶像だからという理由です。でも、スターウォーズは聖書的だと大絶賛。私には魔法とフォースの違いが分かりません。大人になってから、どこかへ行く飛行機の中で観た「賢者の石」が人生初ハリーポッターでした。今は大ファン。

関わってはいけない季節のイベント

お宮参りや七五三をやらないのは当然ですが、ハロウィンは悪魔崇拝の名残という理由で禁止、七夕や節分も偶像なので禁止。幼稚園や学校でそういうイベントをやる日は、休ませられました。

当然、神社仏閣が主催するお祭りも参加は禁止でした。たとえ実際に頭を下げることがなくても、お神輿を担ぐことがなくても、通りがかりにチョコバナナ一本買うことすら禁止なのです。たとえ貰い物であっても、お守りを持つこともダメでした。(小学生の頃みんながランドセルにつけているお守りをずっと何だろうと思ってた記憶があります。)

家庭内で毎日の儀式

食事の前は当然お祈り。親戚の集まりなどでも人目をはばからず大きな声で神様、アーメンと言うので、白い目で見られることもありました。その時周りに与えた宗教的な印象、気まずさは、大人になって両親の宗教観を断ち切った後でも微妙に残ります。現在、信仰しているのは両親だけですが、多くの親戚は「私の一家」がキリスト教を信仰していると思っていると思います。細かく説明すると家族の分断が強調されて面倒なことになりそうだし、そもそも話題にも出したくないほど私は両親の宗教観を嫌っているので、訂正する気力もありません。だから両親だけでなく、祖母や親戚と会うこともあまり気が進みません。

それだけではなく毎朝、家族で集まって聖書を読み、歌を歌い、お祈りをします。たとえどんなに忙しくて、遅刻しかけていてもです。また、教会学校から宿題のようなものが出ていて、それを毎日やらなければいけません。

髪染め、ピアス、お酒、化粧、タバコは禁止

これは教会によると思うのですが、うちのところは完全にダメでした。お酒に関しては、聖書に「酒に酔ってはいけない」という記述があり、それを「酔っ払うまで飲んではいけない」ではなく、「そもそも一滴も飲んではいけない」と解釈しています。

髪染めやピアス、お化粧は、「神様の作ってくださった貴方はそのままで美しいから」的な理由です。私の母は一切化粧をしないので、私は中学生くらいまで「化粧」という概念もよく知らず、それは何なのか知ってからも完全に「悪」という印象を持っていました。

タバコも聖書には書いてありませんが、身体に悪い = 神様から貰った大切な身体を傷つけるということのようです。(私は非喫煙者のため、これは理解できる。)

ちなみに私は現在、タバコ以外、全部経験済み。宗教に限らずですが、子供は縛りすぎると正反対に育つものだと思います。

繰り返しになりますが、これはあくまでも私の置かれていた環境の話であり、キリスト教全般、クリスチャンホーム全般に当てはまることではありません。世の中を見渡せば、今どきのゴスペルバンドなど、髪の毛を染めている方もたくさんいますし、ジーンズなどカジュアルな服装で、バッチリお化粧をして礼拝に出席している今どきの女の子もたくさんいます。皆でワインを嗜むような教会もあるようです。私は信者ではないので、その善悪について思うことは何もありません。そして、たとえ緩めの環境で育ってもいずれは教会から離れていたと思いますし、これからも緩い環境ならキリスト教信者になっても良いなんて、微塵も考えていません。

金銭状況

私は母が結婚してから専業主婦で、父が中小企業の平社員、年収600万円程度の家庭でした。田舎暮らしとはいえ首都圏ですし、子供が3人なので、それだけでも結構節約生活が必要なレベル。決して楽な暮らしではありません。以前テレビで、年収1,200万で生活が厳しいと言っている方がいて、時代が変わっているとはいえ、複雑な気持ちになりました。

母が少しでも働けば違ったのかもしれませんが、なぜか私が18歳くらいになるまでパートには出ず、平日は毎日、お祈りや掃除、雑用の「奉仕」のため、教会へ行ってました。

が、私の親はここから結構色々な理由をつけて教会に貢ぎ続けていたのです。どういう名目で貢いでいたかというと、

什一献金

聖書には、収入の10分の1を献金しなさいという教えがあって、これをうちの家計はきっちり守っていました。しかも、誰が決めたんだけ知らないのですが、手取りではなく額面の収入から10分の1です。それは流石に聖書に書かれているわけないんだから、おかしいと思わないものなのでしょうか…

感謝献金

什一献金だけではありません。毎月、「感謝献金」というものがあり、封筒に「感謝したい項目」を記載して、そこに適当な金額を決めて捧げます。

賞与献金

誰へのボーナスかって?牧師です。笑
ボーナスの時期になると、牧師にもボーナスをくれということです。ちなみにその牧師は車を2台(エルグランドと良さそうなスポーツカー)を持っていて、子供は5人、全員私立の中高(学費が高いと有名なところ)に通わせていました。

実は私も小学校時代、結構ひどくいじめられていたので、中学校は受験して私立に行きたいとお願いしたのですが、「あんたの頭じゃ無理」と言われて却下されました。私、その頃は頭が良かった(テストはいつも満点)ので、頑張って勉強すれば可能性はあったと思うのですが、金銭的に余裕がないために少しも検討さえしてもらえないのは辛かったです。

牧師の子供の進学、留学資金

牧師の子供5人のうち、4人が、神からの特別な使命を受けた、と、言い出し、「献身者」という立場で聖書系の大学、神学校に通い始めます。(そのうち一人はその後、聞いた話では勉強が辛いと言い出して退学しました。牧師とはいえ娘はかわいいんでしょう。お咎めなしです。)さらに、その後、海外の学校に留学した人もいました。その学費は、当然、献金です。

聖書を学んで、「牧師」になる=キリスト教の布教に役立つ、ということで、教会全体でバックアップするのです。まあその人が教会員の中からランダムに出てくるというのであれば、「特別な使命」というのもちょっとは説得力があるかもしれませんが、全員牧師の子供たちだったというのは、闇が深い…

一度、牧師が海外で生活している子どもを訪ねて帰国した時、「良いところでした。ぜひ皆さんもご家族で行ってみてください。」みたいなことを言っていて、彼らは海外旅行をするほど金銭的な余裕がない教会員からかき集めたお金で渡航しているのに、何を言っているんだと思ったことを鮮明に覚えています。

まあ、牧師の子供として生まれるというのは、単なる教会員の子供として生まれた私の何百倍も厳しく、縛られ、プレッシャーを与えられる人生だと思うので、羨ましいとは思いません。問題は、そこに貢ぐことへ疑問を持たない大人たちだと思うのです。

私たち家族は、私が中学2年生になるまで2部屋の狭いアパート暮らし、やっと引っ越した家(現在の実家)も、床がミシミシいうくらい古い、ガチガチ昭和スタイルの中古一戸建て、私を含む兄弟3人は全員、小学生〜高校生までは同級生たちと比較して圧倒的にお小遣いが少なく、大学へは奨学金を借りて行きました。教会のイベント以外で市外に出かけるのは、県内に住む祖父母宅へ行くときくらいで、遠出はほとんどなく、家族旅行は、記憶の限り一回だけ。高校生くらいの時、「留学行ってみたいな」とサラッと言ったところ、両親揃ってすごい剣幕で「そんなお金はありません。大人になってお金稼いで自分で行ってください。」と一刀両断されたことを覚えています。

子供の頃、「うちって貧乏なの?」と親に聞くといつも、
「必要は与えられています。」と返されていました。

貧乏ではなかったと思いますが、教会に貢いだ分色々我慢しなければならないのは事実なのに、「聖書の言葉を守って献金しているから祝福されている」という考えには状況的に賛成できませんでした。献金をせずにお金を自由に使うメリットと比較して、献金をした場合の「祝福」というものはいまだに思いつきませんし、なかったと思います。単なる気休めだと思います。

もちろん、お金にはどうしても限度がありますし、経済的には非常に厳しい家庭がたくさんあるのは知っているので、この点、あまり強く文句は言えません。ニュースで見るような、億以上借金させるみたいな極端なことはなかったと思います。大学なんて自分の人生のために行くのだから、自分でお金を払って当たり前という考え方も理解できます。家族全員健康でここまで過ごせていることが、お金よりも大事という観点もあるでしょう。

でも、宗教に貢いで、牧師にリッチな生活をさせる代わりに自分の子供には平気で色々なことを我慢させ、借金をさせる精神は理解し難い。

「勤めている会社の社長」だったら結果的には同じようなことになるのかもしれないけど、教会ではどんなに頑張っても1円も貰えない。時間とお金を搾取されていくだけ。100歩譲って趣味にお金を費やす延長だとみなしても、子供を差し置いて優先する趣味って何?ってなるし、納得はできません。

罪意識、神への感謝の強要

これが1番辛く、自分に長期的な影響を与えたものだと思っています。

自責思考を植え付けられる

キリスト教では、人間はすべて罪人だと教えています。確かに、程度の差はあれど、人間は人生において誰でも悪いことをすることがある、これは事実です。

でも、私はこの教えに基づき、何かがあると必ず、自分の悪かった部分を掘り起こしてしっかり考え、反省し、神様にごめんなさいをする、という教育を徹底されていました。

一見、しっかりとした教育にも思えますが、これは、私が小学校で3年間にわたりいじめられていた時もそうでした。3年間で3回、いじめが発覚して先生から親に連絡が入ったタイミングがあったのですが、その時はいつも、めちゃくちゃ叱られました。

叱られる点はいつも一つ、
「いじめられていることを報告しなかったこと」です。

なぜこれが悪いかというと、
・報告しないことで、いじめっ子に罪を犯させ続けていたから
・報告しろと先生や親から言われていたのに、約束を守らなかったから
ということでした。

私がいじめを先生や親に報告できなかった理由は、
・チクるともっといじめられる(陰湿になっていく)から
・クラス全員の前で先生が話をすると、その直後に今まで傍観していたクラスメイトがガラッと態度を変えて善人ヅラすることが気持ち悪かったから
・親から教会の皆にバラされるから
でした。

要するに、先生も親も信用できなかったんです。
親には、「チクるともっといじめられる」と言いましたが、「そんなのくだらない言い訳だ」と、はっきりと言われました。そして、忘れもしない言葉が飛び出ます。

「あんたはいじめられたら報告しろと言われていたのに約束を破った。もし、今回いじめっ子たちが一度先生から叱られたことでいじめをやめたら、いじめっ子たちよりあんたの方が悪いんだ。

はあああああああああああああああっ!?!?!?!?!?!?!?!?

人を殴って蹴って、ハブいて悪口を言って、バイキン扱いして、身体的にも精神的にも苦しめた奴ら、大人だったら逮捕されるようなことをした奴らが、被害者の私よりも悪いとは、どう考えてもあり得ないと思うのです。これを、12歳の娘に言う親って、どうなんでしょう?

その後、親は、いじめを先生に報告してくれたクラスメイトの親に電話をかけお礼、いじめっ子の親とは面会を求めることも、何かを要求することも、先生を責めることもなく、表向きにはすごく寛容な良い人ヅラをしていました。明らかに、自分の娘よりも学校側やいじめっ子側を尊重していました。

そして、私が長い間誰にも言わずに必死で耐えてきたいじめの一部始終を、勝手に教会の皆に言いふらし、私は次の日曜日、教会のお姉さんたちから個室に呼び出され、何があったのか改めて泣きながら話させられるという屈辱を受けます。慰めるつもりだったのかもしれないですが、親や先生にすら言いたくなかったことを教会で何の躊躇いもなく言いふらされたことで私のプライドはズタズタです。

元々、いじめを報告できなかった時点で親への信頼は薄れていたのですが、この一部始終以来、私は、親を信頼することを完全にやめました。友達関係、恋愛関係、悩みや嬉しかったことまで、「深い話」は現在ですら、しません。

良い結果を出しても褒められない

トラブルが起きた時だけではありません。テストで良い点を取った時、良い成績を取った時、学校で先生から褒められた時、一度たりとも褒められたことはありませんでした。でも喜んではくれます。なぜかというと、

「神様に感謝。」それだけ。

すべては私の成し遂げたことではなく、「神様に成し遂げさせてもらった」というスタンスなのです。でも、どう考えたって頑張ったのは私。どんなに神様に祈ったって、普通は勉強しなかったらテストで満点は取れません。

別に物理的なご褒美はなくてもいいので、
「よくやったね。すごい。」
って、1回でも言ってもらいたかった。
褒めて育ててもらった人が本当に羨ましい。

「悪い事」は全部私のせい。「良い事」は全部神様のおかげ。

この方針は、人格否定の域に入ると思うのです。

正直、子供の頃はそれが普通で、他の家庭がどうとかもあまりよく分からなかったため、反発を感じたことはあまりなかったのですが、大人になってから回想すると、慢性的に自分を全否定されることで私の自己肯定感はどんどん下がっていったのだと気づきました。

海外に住んでいて、欧米人の明るく自由なマインドに触れながら生きている今は、かなり良い精神状態になったとは思うのですが、どうしても潜在的な自己肯定感の低さにより気持ちが沈むことは多々あります。すでに自立した大人として、人生のマイナスポイントを親のせいにしたくはないし、すべきでないことはわかっているのですが、自己分析をすれば、どうしてもそこに多かれ少なかれ原因はあったと考えざるを得ません。

葛藤

私の経験は、ニュースになるような「最悪」と言われる状況ではありません。何億も借金させるような某宗教団体と比べれば全然甘いし、客観的に見れば普通に厳しい家庭くらいなのかもしれません。そして、たとえ同じ環境で生まれ育ったとしても、人によって受け取り方は全然違う(平気な人もいる)と思います。

でも言論の自由がある限り、言わせてほしい。私は本当に嫌だった。
今でも、教会や、教会の人が、たまに夢に出てくるんです。思い出したくもないし、正直、「教会」「聖書」「キリスト教」というワードを聞くだけで寒気がします。

遅くとも二、三十年以内に、親の葬儀も、教会でやることになると思いますが、本当に心の底から行きたくないです。(さすがに実親の葬儀なので、結局は出席すると思いますが…)行っても、恐らく涙は出ないと思います。何があっても一生、教会にだけは行きたくないし、教会の人と顔も合わせたくない。

教会を離れたときは揉めましたが、今、親と特別不仲というわけではありません。それなりに、妥協してくれたようです。普段、全然連絡は取りませんが、たまに帰省すれば普通に話せるし、私もちょっとしたお土産を渡しますし、長く泊めてくれて、ご飯も作ってくれて、ちょっとした物を買ってくれたり、良くしてもらっています。その点、もちろん、「ありがとう」は伝えています。

でも、事柄単位ではなく、「親」という存在に感謝すること、「親に育ててもらったこと」「愛情を注いでもらったこと」など、総合的に感謝することは、できません。

母の日、父の日、親の誕生日、結婚記念日、覚えていますが微塵も祝う気になれないし、メッセージを送ったことすらありません。別に親を心底嫌っているわけではないのですが、どうしてもそうする気になれないのです。

その点、海外生活は私にとって気楽です。親に長期間会わないことがある程度は平和的に受け入れられる唯一の言い訳ができ、金銭状況、毎週日曜日には必ず教会に行くというライフスタイル、そしてガチガチに保守的な性格を踏まえ、今後一生、親が来ない、手の届かない場所にいることが分かっているからです。(もちろん、それが日本を出た目的ではありませんが。)

産み育ててくれた親、世間的には悪くない親なのにそこまで思ってしまう私の性格がおかしいの?感謝できない私が悪いの?

近い将来、私も母になりたい、子供を産みたいという思いが強くあります。
でも、
自分の親にこんな酷い思いを持ってしまうような人間が親になっていいの?
そして、
あんな親の遺伝子を引き継いでいる私のことだから、似たようなことで子供に同じ思いをさせてしまうんじゃないの?
度々、葛藤しています。

残念ながらこれは、今後の人生でずっと、向き合っていかないといけない経験だと思います。そもそも過去は変えられない、しかも親ガチャという不可抗力に由来するものなので、別に親に謝罪してほしいとも思わず(仮に謝罪されても子供時代は帰ってこない)、もう未来を良くすることを考えていくしかないです。

どうやってこの経験を活かして良い人生を送れるのか、はっきりとは分からないのですが、まずは、何があったのか、それに対してどう感じているのかを整理することから始めようと思い、今回noteに書いてみました。

うまくまとまっておらず、すごく個人的な内容にも関わらずここまで読んでいただいた皆さん、本当にありがとうございます。また、不快な思いをさせてしまった方がいらっしゃいましたら、誠に申し訳ございません。

20年も教会にいたら、当然色々なものを見てきたので、ここまでネガティブな内容ではなくとも、また何か記事にできればなと思います。応援してくださる方は、♡を押していただけるとうれしいです。

今、子育てをしている人、将来子育てをするかもしれない人には、難しいとは思うのですが、子供も1人の人間であることを心に留め、柔軟な価値観を持つことを許してあげてほしいなあと、願っています。


いいなと思ったら応援しよう!

HIKARU
フリーランスですがまだまだ駆け出しなので、少額でもサポートいただけると本当に助かります。これからも楽しくて役に立つコンテンツの作成を頑張っていきますので、そのエネルギーにするためにサポートいただけると嬉しいですm(_ _)m