スロウ 短編小説 4229文字
タイトル スロウ
お題 あと10日
「あの………教授の授業はいつも聞いています」
都心部にある大学キャンバスのカフェテリアの一角でいつも通りランチ休憩をとっていると、声をかけられた。
カフェテリアといっても、キッチンカーと大きいパラソルが数本と同じ数のテーブル、緑色の布製の折り畳み椅子。
屋外型で、雨天時は体育館に出張になるのだ。
何故か俺はよく声をかけられる事が多い。
それも、女子生徒にばかりだ。余程親しみやすい外見なのだろうか。
今日は舐められないようにオリジナルレーベルのネクタイで気合を入れたつもりだが………。
目の前の女子生徒は上下リズリザで固めた白い洋服。
アンクルージュのカバンからレースで縁取ってある封筒を急いで取り出した。
「これを………良かったら読んでください」
赤い顔でそう言い残し、ロッキンホースでよろよろとツインテールを翻して立ち去って行く。
小さな背中は校内のモブとして溶け込むまでに数秒かかった。
傍の数人の男女グループが他愛もない世間話で笑い声を立てる。
俺は両手を見た。
封を開けると
ゴシックロリータ調の便箋には小さい丸文字で埋めつくされている事は予想出来たが、
文字が大小いびつに不揃いで右に傾いたり左に傾いたりした配列に目を奪われる。
漸く中身を解読する事に成功すると謎の充実感が沸き起こった。
『 突然のお手紙申し訳ありません。
いつも楽しい講義で勉強になります。
境田教授はとても美しくて…。
残りの日々も悔いなく過ごしてゆけそうです』
「美しくて…、かー!これって愛の告白ってやつですか」
驚いて肩を羽ばたかせて後ろを振り返ると、やはりというかいつもの奴がいた。
「津下!盗み見は良くないぞ」
「俺は森下さんが来る前から居ましたけどね。境田教授顔が真っ赤ですよ」
この喧騒に紛れて俺の背後に忍び寄っていたとは背後不覚だ。
そして一体この津下という二回生は何者なのだ。
いつも俺の環境文化論の講義では欠席することはないが、マシュマロを食べながら受講している。
不可解なやつだ。
俺は気恥ずかしさで紅潮した頬を隠すために津下に背を向けて気になることを問うことにした。
「というか津下、彼女の名前を知ってるのか」
「え?森下さんのことですか?手紙に書いていないんですか」
「手紙は無記名だ」
「何すかそれー余計本気っぽい気がしますよー」
「茶化すな、全く」
「教授若いしイケメンだからズルいよなー」
津下はクシュっと柔らかそうな頰っぺたを弛ませて笑う。
ーゼラチンを含んだ洋菓子をずっと食べているとこういう肌質になるのだろうかー
イケメン?若い?確かに身だしなみには気を使っているが四十を目前に控えている。
この子達の若さとは質が違うのだ、根本的に。
「いけね、次は別棟で情報学だ!教授、また明日」
小柄な津下は一礼し、左肩を翻して立ち去っていってしまった。
半円形のビックフーディの付いた背中は風景に溶け込むのにすぐだった。
俺はため息を吐きながら手紙を読み返していた。
そして文章から引っかかる箇所を一つ見つけ出した。
『残りの日々』
講義に出ている学生は覚えている様で覚えていない。
四月から講義に出るようになったばかりなので、
如何に過不足なく講義の内容を自分自身の言葉で伝えるかということにこだわっているので、それで精一杯な部分があるのだ。
生徒のレポートの採点などもふくめると4月から駆け抜けた印象がある。
電気ケトルの湯煙を扉越しに見ながらそんな事を思う。
俺、境田聖一の控え室兼研究室は給湯室の向かいにあるので便利だ。
「森下冬梨」
出席表と格闘しながら漸く彼女の名前を見つけ出す。
そもそも、あれほどインパクトのある外見をしていたら覚えていても良さそうなものだが。
我ながらいい加減なものだとため息を吐く。
時計を見た。ゼミの時間までは雑事に追われる事になりそうだが、手元のエナジードリンクがカラになっている事に気がついた。
休み時間前に気がつけば、と思ったが仕方が無いので校内のコンビニまで急ぐ事にした。
銀色のチカチカしたデザインの缶を何本か大量に買い込んだ帰り道、校内の芝生広場を横切った。
花が所々咲いた藤の木や怒ったように緑を付けた桜の木、学生がじゃれて樹齢を確認するような大木の楓の木が周囲を囲っている。
そんな場所で所々にベンチや机などが細切れに配置されている。
賑やかではない時間帯とはいえ、学生や職員がまばらにいた。
思い思いに休憩をとったり談笑したり課題をこなしている人々。
五月。長袖のワイシャツにネクタイがちょうど良い紫外線の強さだ。
陽気と、時の流れがとてもゆっくりに感じられる午後だった。
その細々とした風景の中に森下冬梨の姿があった。
思わず足を止める。
アンクルージュの真っ白なカバンをベンチに置き、自分はベンチに向かいしゃがんで腰を下ろしている。
リズリザの膝丈スカートが石畳につきそうだった。
スイマーのポーチからアナスイの鏡を取り出すと保存液が詰まったコンタクトケースを右手に持ち換える。
レンズを素早く鱗のように天を仰いだハードレンズを左指に載せると、
右手でCの時を作り左目を縦に開き、大きな眼球が更にぎょろりと飛び出してくる。
透明なレンズが左指から黒目に吸い寄せられると森下は大きく瞬きし、涙を一粒ばたりと流した。
ヴィヴィアンのハンカチで涙を拭ってしまうと、畳みかけたミラーに映った俺に気がつく。
「あっ…」
しゃがんだままこちらを向いた彼女はたちまち赤くなり、硬直してしまったので慌てて声をかける。
「森下くん」
「………境田教授」
初めて成り立った会話。
こんな姿を見られていたのかとバツの悪そうな森下冬梨は素早くミラーやポーチをカバンの中に仕舞うと再び俺に向き直った。
「失礼しました」
「近視なのかな?」
「近視というより………あの………先程は………」
眉の下で切り揃えられた前髪の下から、黒目が二つこちらを弱々しく捉えるが何か伝えたい事が他にもありそうなそれだ。
「先程?先程はお手紙ありがとう」
俺が笑うと、顔を真っ赤にして二つの尻尾を頭から垂らして細い顎を首元に押し付けてしまう。
付けまつ毛をしているのか、目元に落ちる影が深く長い。
俺は手紙を読んでいて引っかかっていたことを思い出した。
「森下くん、『残りの日々』って何かな」
俺の質問を受けると森下冬梨は芝生広場の藤の木よりもずっと向こうを見据え、目を細めた。
日差しとゆるやかなそよ風が心地良い。
森下冬梨は逡巡した後、こう返した。
「教授にお手紙を書いたのは自分自身が後悔しない為でした」
「後悔?」
「私の目は正確に言えば緑内障の一種で………治療法が見つかってないそうです。
今この時も狭い範囲でしか見えていないのです」
寂しそうに森下冬梨は小さな唇で続ける。
「現在通院していますが…逆算するとあと10日でわたしの目は光を失います。
だからー今のうちに綺麗なひとやものを沢山見ておきたくて」
光を失う。
彼女は確かにそういったのだが不思議と絶望感や重苦しさは感じられなかった。
「大学は続けます。点字資料や音声システム、学生課のサポートもありますから。
友人も皆心配してくれて…特に津下くんという子は点字に慣れないうちは
スクリーンで見えづらい授業があると
横で耳打ちしてくれたりして」
「津下が…」
昼休みの憎たらしい津下を思い出した。
あいつが森下冬梨を助けていた。
俺は教え子を見直すとともに学生をよく見ていなかった自分を恥じた。
何かいい事を思い出したかの様に森下冬梨は小さく笑い、言葉を続ける。
「他の科の友人も3Dプリンターを一から作ろう、とか手助けをしてくれて、私恵まれてるなって。
境田教授にこうして教わっている事も感謝したくて」
彼女は俺が思うよりずっと強い人間だった。
簡単に嘆き苦しむ事が許される様な事態でも決してそれらをしない。
いや、それらを乗り越えた故の強さなのか。
自分自身の無力さが気が遠くなるほどだった。
「何か俺にできることがあればいいのだけれど」
思った事がそのまま言葉に出てしまったので口に手をやる。
森下冬梨は目を大きく開き斜め上を見た。
遠くの桜の木は新緑をつけ、黒い実を散らし終えたばかりだ。
「教授を見ていたいです」
「俺を?」
「はい。10日後に目が見えなくなってからもずっと教授を見ていたいんです」
「…どうやって?」
「そのために10日間ずっと見ていたいなって」
森下冬梨の白い頬に、木漏れ日が薄く光を落とす。
髪はちょうどいい湿度に揺れてたなびいていた。
長い髪だ。
「俺を見ていたい、か…」
森下冬梨の要望を繰り返すとくすぐったさが身体を駆け巡る感覚に戸惑う。
本人に堂々と宣言されるというものはこうも気恥ずかしいものか。
森下冬梨の真剣な表情とぶつかる。
そうだ、10日後には彼女の視界から俺は消えてしまうのだ。
本当の闇に包まれて彼女は記憶の中の光を思い返す、と。
そう思うと、恥じらいや戸惑いもあったが気にしていられなかった。
黙っていた俺に不安を感じたのか森下冬梨は伺うように小さく俯向く。
ーこの子は今、大切な何かを諦めようとしているのかもしれないー
俺は楓の木の葉 少し人の手に似ている形を見ながらしばらく言葉を選んだ。
「わかった。10日間俺も悔いのない講義にする。
学生のこともちゃんと一人一人を見ていくことにする」
話していくうちに、胸の内が熱くなるのが分かった。
「だから森下くん、君は光を手に入れるんだ」
俺は認識したばかりの女子生徒に向かって何を熱くなっているんだ。
かっこうつけるなよ
そう思うのに止まらない。
鼓動が早くなるのを全身で感じ取った。
森下冬梨は不思議そうに小首を傾げて繰り返す。
「…光を手に入れる?」
「そうだ。君が言ったみたいに暗闇に飲み込まれるのではないんだ。
光はそこにある」
「…私は美しい人やものや風景の中に見出したいんです。
でも、意外と私の中にもあるのかな」
「君も充分美しいぞ。悲しい顔は似合わない。笑うんだ」
俺は自分の内側からどんどん力が溢れてくるのを感じていた。
森下冬梨に大切なことを伝えたかったのだ。
−毎日飲んでいるカフェインは身体を蝕む−
−まるで、彼女の角膜の中に棲むコンタクトレンズの様に−
ガサガサと急かしたてるエナジードリンクの入ったレジ袋に許しを得ながら持ち直して呼吸を整える。
「あと10日もある。ちゃんと俺を見ててくれよな」
そう言い置いて俺は研究室への道へと引き返す。
顔が真っ赤に染まっているのを、あの大きな瞳に映されたくなかったのだ。
-END-
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