映画 「最後の忠臣蔵」(2010年公開)
個人的所感によるあらすじ
世の中を騒がせた赤穂浪士の討ち入りから16年。大石内蔵助以下四十七士全員が切腹し、事件はとっくに終わったと思われていた。
しかし、一人だけ死ぬことを許されず、密かにそして懸命に生き抜いた男がいた。寺坂吉右衛門、真実を後世に伝え、討ち入り浪士の遺族を捜し出して援助するという大役を、大石内蔵助に与えられた。とうとう最後の遺族を捜し当てた吉右衛門は、四十六士の十七回忌法要に参列すべく、京都へと向かった。京への道すがら、吉右衛門は我が目を疑った。片時も忘れたことのない、かつての友の姿を見かけたのだ。
瀬尾孫左衛門、討ち入りの前日、逃亡した男。若くして妻を失い、子もなく、主君内蔵助への忠義のために喜んで死ぬと誓いあった友がなぜ?それは、16年後の今も解けない謎だった。
実は、孫左衛門にもある使命が与えられていた。身分を隠し、骨董の売買で暮らしを立てている彼が、命を捧げる決意を燃やす隠された使命とは。
ちょっとネタバレな感想
忠臣蔵で死ぬことを許されなかった男二人。
一人は武士のまま、残された人々を救うために諸国を巡り、
一人は武士を捨てて、主君の隠し子を隠れ育てる。
そんな16年間。
大義のために死ぬことがよしとされた時代、どちらも生き地獄であったことは想像にかたくないが、あえて比べるなら、武士であった「自分そのもの」を捨てざるを得なかった孫左衛門の方が苦しみは大きかったような気はする。さらに幸か不幸かという話で言えば、こちらは孫左衛門の方が、ささやかでも幸せだったのではないだろうか。
守るものが存在としてそばにいる。
人が一番耐えることがむずかしいのは、孤独だから。
それは残された者にとっても同様だ。
無事に使命を果たした孫左衛門は、なぜ自分の人生を生きようとはしなかったのだろう。
すでに名誉は回復し、思いを寄せてくれる女もいるというのに、死にいく必要がどこにあったのだろう。
時代と言ってしまえばそれまでだが、彼は本当に大石内蔵助という主君に対する忠義のために死んだのだろうか。
もしかしたら、本当は永遠に失いたくなかった幸せな日々と、愛する娘であり女であり、唯一無二の主君のためだったのではないかと、そんな風にも思うのはうがった見方なのだろうか。
そうでなくては、残された女二人の孤独は、きっと永遠に報われないのだから。