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映画「忘れえぬ想い」(2006年公開)

個人的所感によるあらすじ

シウワイは、ミニバスの運転手をしている婚約者のマンを突然の事故で亡くす。最愛の人を失い悲しみに暮れるが、お嬢様であり結婚に反対されていたシウワイは、マンの連れ子のロロと一緒に暮らすことにする。

まるでロロを手放すことが今までの全てを否定されるかのように、家族や周りの手助けをかたくなに拒否するシウワイ。生活のためにマンが残したミニバスを修理し、運転手として生きていこうと決心する。しかしただでさえ運転に慣れない女の細腕では過酷なミニバスの運転手稼業はつとまるわけもなく、借金だけが増え、精神的そして肉体的にも追い詰められていく。

そんな中、マンの同僚で事故に居合わせたファイは最後を看取ったという責任感から彼女をなにくれとなく気にかけていたが、次第に彼女を放っておけない気持ちになる。けれど、彼にもシウワイと同様、今も“忘れえぬ想い”が胸のうちにあって・・・。

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ちょっとネタバレな感想

痛々しいまでに亡くしたものにしがみつく不器用な『女の子』シウワイ。
シウワイにとって、亡くした婚約者は全てだった。だからこそ、彼を失いたくなくて彼女はかたくなに生きようとする。
その激しさはこっちまで辛い気分になるくらいだ。

正直、ラウ・チンワン演じるファイのように途中で手を出したくなってしまう気持ちが分かるほど、彼女は意地をはりまくる。のばされた手も、助けようとする腕もひたすら拒否し振り払う。切ないほどに。

「素直になればいいのに。」

そう思う人は多いと思う。

けれども、素直であることってそんなに大事なことなのだろうか。

『女の子』にとって”意地”というのは、周りが考えるよりもはるかに大きな武器だ。鎧と言ってもいいかもしれない。うまく世の中を泳ぐすべも、自分に対する自信も持ちきれない時間の中で”意地をはる”という行為はけして大人が思うほど子供っぽい行為ではなく、体の中に渦巻く様々な思いを整理し吐き出すための準備運動なのだということに、気がついている人はいったいどれくらいいるのだろう。

意地を張り続けて生きていくことはできない。でも一度も意地をはったことのない少女は大人にはなれない、と思う。
強くて狡猾でしたたかであることも女の一部なら、その思いはけして避けて通れないものだから。

誰だって、男だって女だって自分の中に渦巻くどうしようもない気持ちに捕らわれたことがあるはずだ。それに負けないためには、武器を手にしなければならないときだってある。鎧をまとわなければ、きっと手段を見つける前に崩れてしまうのだ。

男なら、しがみつくものはプライドだ。ファイもそうだ。それしか手段を持たずに物事をややこしくしたりする。
反対に女は意地をはり、鎧の重さにもがくのだ。

ぶつかりながら傷ついて、その中でなにが自分にとって大事なのかを見つけたとき鎧は自然にはずれてくる。ファイに対する信頼が、自然に愛に変わっていったように。そして剥き出しの自分を認識できたときに、人は一人ではけして生きていけないことに気づくのだろう。

自分の腕では持ちきれないものを他に委ねることを知ったとき、誰かと生きる、ということはどういうことなのかがわかる。様々な思いが染みついたミニバスを手放した二人は、その空いた手でお互いをしっかりと守りあいながら生きて行くに違いない、きっと。

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