映画「ワールド・トレードセンター」(2006年公開)
個人的所感によるあらすじ
2001年9月11日、全世界がTV画面に釘付けになった、あの日。アメリカ同時多発テロの標的となったワールド・トレード・センターの地下港湾警察官のジョン・マクローリンとウィル・ヒメノ、そして仲間達は崩れ落ちるビルの巻き添えになり、地中深く生き埋めの状態になる。
閉じ込められた彼らは、極限状況の中、必死に生き延びようとするのだが・・・。
ちょっとネタバレな感想
この作品に関しては多くを語る必要はないだろう。
あの出来事が起こったときはまだ欧州に住んでいて、私はたまたま家に帰ってテレビを付けたところだった。妙な軌道で飛んでいる飛行機がいる、というコメントと共に、たぶんたまたま向けたのだろうテレビカメラの映像が流れて、
と、思った瞬間、ビルに飛行機がぐっさりとささっていた。
目にした”もの”を頭で消化する間もなく二機目が突っ込み、そのままテレビの中で混乱が広がっていくのを、一人きりのリビングでただ見つめていた。とても天気が良く、秋の夕方の窓辺がオレンジ色に光っていたのを思い出す。
この手の作品でどうしても思い出すのが、阪神大震災のことだ。
私の母は神戸出身で、親戚のほとんどが神戸在住だった。例えば高速道路が折れた真横に写っていたマンションには母の弟家族が住んでいたし、従姉妹は長田区で一人暮らししていた。友人もいわゆる阪神間のあたりに住んでいる者が多かった。
ありがたいことに、私の知りあいの範囲で、最終的に死人は出なかった。ほとんどが被災して神戸を離れたけれども、苦労はたくさんしたけれども、それで人生を根本から棒に振った人間は私の身近にはいなかった。本当にラッキーだった。
それでもあの息詰まるような息苦しさ、消息が知れるまでの祈るような気持ちはまだまざまざと思い出せる。第一報から「駄目だった」と聞けば、悲しみ苦しんでもまだあきらめはつく。
怖いのは可能性が残っているときだ。どんなに低い可能性でもそれに人はしがみついてしまうものだから。
誰かが見つかったと聞けば自分の待ち人かもと思い、そうでなければ嫉妬する。自分の待ち人であったならば、自分はよかったと胸をなで下ろす。この映画のテーマのように人間は支え合うこともできるが、簡単に悪魔にもなれるものなのだろう。
冒頭でジョンのチームとしてビルに向かい、災害に巻き込まれるメンバーのロッカーの名前をカメラがパンしていくシーンがあるが、ほとんどが移民系の名字である。はっきりいえば、アメリカ社会では中流~下流に属することが多い人々だ。
ジョンとウィルは戻って来れたからヒーローになった。
けれども戻って来れなかった大多数の人々は、どうだろう。誰がよかったと胸をなでおろし、誰が悲しみに突き落とされたのか。
少なくとも、毎日リムジンで通勤したり、大統領専用ジェットで移動するような守られている人々ではなかったはずだ。
そんな視点で見れば、この映画を撮った意味は、きっとこれからも問われていくのだろう。