映画 「ハラがコレなんで」(2011年公開)
個人的所感によるあらすじ
この世で一番大事なことは、「粋」に生きること。失くしちゃいけないのは、「義理と人情」。それが原光子の生き方だ。妊娠9ヶ月でお腹の子供の父親とは別れ(金を持ち逃げされ)、金もなければ家もない。そんな限界でも、光子はどーんと構えていた。流れる雲を追いかけて、子供の頃に暮らした長屋にたどり着く光子。時が止まったままの長屋には、優しすぎて不器用にしか生きられない人々が肩を落として生きていた。
そんな彼らを見かねた光子は、誰よりも困っているはずにもかかわらず「OK、大丈夫。私がなんとかする!」と立ち上がり...。
ちょっとネタバレな感想
底抜けのコメディ映画かと思ったら、むしろ空気感は重い。
いや、けして暗いわけではない。
笑える映画であることもコメディであることも確かなのだが、それだけではなく現代が持つ様々な悩みや影の面をたくみに散りばめてあり、ふと我に返ってしまうからだ。
笑いながらも目だけ真剣になってしまうような。
光子は「粋」な人生が最良と思っており、そのずれた価値観のせいで
はたから見れば完全な負け組人生を送っている。
そして光子とはまた違う方向での”過去の遺物”がうごめく長屋とその住人たち。
彼らの生活もけして幸せそうには(一見)見えず、スクリーンの中はため息が蔓延しているように(一見)見える。
でも、彼らは驚くほどどんどん幸せになっていく。(ように見える)
いっそすがすがしいほどに。
様々な情報と状況に囲まれている今は、正直他人のことになんてかまっていられないという人の方が圧倒的に多いはずだ。
誰かの役に立ちたいという気持ちはあっても「まずは自分」。
だって余裕のない時にそんなこと考えられない。
なにかを受け取ったら返せばいい。
それでも充分思いは伝わる。
だってそうしたいという気持ちはちゃんとあるんだもの。
それがたぶん今の割と平均的な価値観だと思うし、個人的には特に間違ってもいないと思っている。
この映画で描かれる昔ながらの助け合いの長屋というのはまったく逆、壮大な「甘え」の上に成立するなれ合いの世界だ。
自分に戻ってくることを信じきっているから、そもそも得かどうかなど考えない。
だからまずは相手を甘えさせることに、なんの疑問もない。
その分相手に甘えるときにも遠慮がない。
自分が見捨てられるなどということが、そもそも考えに入っていないのだ。
だって一人じゃないんだもの。
たぶんこれがそういう世界の人々の基本の考え方、なのだろう。
表面だけみると、こういう世界は理想的で単純にうらやましくなるのだが、これは全員が平等にこのスタンスと余裕を持っていないと成立しない話だろう。
いろいろな変化を経た現代、たぶん昔は圧倒的多数だっただろうこの価値観は、重くうっとうしいものとなり、結果的に変わらなかった彼らは時間の流れの中に取り残され、孤独死や閑古鳥のなくお店やリストラなどの問題に直面してしまっている。
それがこの作品に散りばめられた「現代」であり、作品の根底に流れる「闇」であり、笑っている最中にも心を掠めてかすかな傷みを残していく。
誰もが気づいていて気づかないふりをしているものを、きっと思い出させてしまうから。
信じることをベーシックなコンセンサスとしては放棄してしまった世界、
それが現代の偽わざる姿であることは、きっと多かれ少なかれ皆が持っている感覚ではないだろうか。
それを鮮やかに、迷惑なほどにぎやかに、そしてどたばたと変えていく光子。これをうらやましく感じる人も今だからこそ多いのだろう。
光子がいない私たちは、さてどうしたらよいだろうか。
このなにもかも眉唾な世界の中で、信じるということは、思った以上に重いのに。