見出し画像

育休での学びを整理する

五月一日からフルタイムにて復職しました!

が、しかーし

実際は我が子ちゃん四月の下旬にウイルスもらってきてから、なかなか治らず、結局わたしの復職はGW明けとなったのです。しかも、わたしもしっかりウイルスもらって体調崩しました。

順調に慣らし保育も終えていたところで、四月下旬に0歳児クラスみんな代わりばんこに体調を崩す(笑)「このタイミングでもらってきたかー(泣)」育休最後の自分の予定がことごとくキャンセルになる虚しさ。なんなら今週末も旅行のはずが、わたしが熱発して直前キャンセルに・・。

ということで、保育園の洗礼を漏れなく受け、これからしばらくが耐え時になります。
苦労と共に学ぶことも絶対あるだろうとおもうが、とりあえず、この約一年の産休育休を経てわたしが悟ったことを整理してみる。


物事の優先順位は「やらなければいけないこと」>「やりたいこと」>「やった方がいいこと」


初めての育児で、なんでも一生懸命やらねばと頑張るわたし。
なるべく我が子ちゃんの相手をして、触れ合って、テレビは極力見せず、一日一回はお散歩して外気浴させて、絵本読んで・・・
と、生後3ヶ月〜の『ってか、何して遊ばせたらいいの?』という時期から、我が子ちゃんが起きてる時は相手をしないと!と思っていた。寝てる間にできる限りの家事を済ませ、とか色々してると、自分のしたいことがどんどん後回しになっていく。
不思議なもので、“トイレに行きたい”、“寝たい”という生理的欲求が一番後回しになってしまうわたし。赤ちゃんの相手も、大胆に言えば本当に必須な時以外は“〜した方がいい、すべき”にあてはまる部分も多いと思う。
だからそれで自分がノイローゼになるくらいなら、本当にしなければいけないことをしたなら、その次は自分がしたいことを優先する、と決めた。掃除だって、別に毎日しなければいけないわけじゃない。
この優先順位付けは、仕事でも生かされるんじゃなかろうか。

自分で決断する勇気を持つ

これは言い換えれば、自分の言動に責任を持つ、ということ。
出産し、子育てする中で、些細なことから自分で決断することがたくさん求められた。
出産後の先天性障害の遺伝子検査を受けるかどうか、はわたしの入院中のことだったのもあり、わたし一人で決めた。

本当に些細なことだけど、初めての子育て、何が使えるか(ハマるか)わからない中で、これは買う、これは買わないという選択。

我が子ちゃんが原因不明のギャン泣き、医者に連れてく?連れて行かない?

いつもよりちょっと機嫌悪いみたい、お出かけどうする?


基本子供第一で考えて、選択をしてきた。(たまに自分都合もあった)
正解・不正解はわからない。夫と意見があわないことはしょっちゅう(だいたいにおいて、夫の方が心配性だし潔癖。わたしが雑な人間)。なぜこう思うのか、という論理的な説明まではさすがにしなかったけど(てか、多分そんな余裕ない)、それでもお互いが納得いく選択をしなければいけないことが激増した。
それまでのわたしは、相手の意見を聞いているようで、人任せにしていたんだと思う。その上、自分の都合で自分の意見を言っていたこともたくさんあるはずだ。
それが、育児の中では、“自分ではない誰かのことを思って、判断をする”という経験に溢れているわけだから、これはわたしにとって本当に貴重でありがたい経験であり訓練だと思う。

自分の発言に俄然、責任感が芽生えた。
決断を他人に委ねるのは簡単。他人の決断に、お節介をいうのも簡単。
もちろん、今でも夫に対し「もっと決めてよ」、と思うことがたくさんある。ちなみに、次なる課題は、他人の決断に対し、お節介を言わないこと(笑)

わたしは世界に一人しかいないのだから、もっと自分を許していい


完璧にあらねば、と思うほど、自分のできないところや劣っているところにばかり目がいって、できない自分が恥ずかしく、責めていた。ずっとそうだった。

例えば今の職場ではわたし以外の人全員が理系出身。論理的思考力が劣ってるんだろうな、試験系とかよくわからないし、統計もわからんし、、、と文系出身だからということを言い訳に、でもずっとそういう劣ってる点が恥ずかしくて。
いつまで経っても仕事に自信が持てないから発言も自信がなくて、だから発言した後に『あ〜なんか今の発言違ったかな。何も分かってないって思われたかな』と心配していた。

感情が表に出やすいし、表にでなくても、人の発言で勝手に深読みして傷ついたり。その上、傷ついた自分に対し『もっと上手く立ち回れる人いるのに、どうして自分は。。』と責めていた。

でも、可愛い可愛い我が子ちゃんをみながら、

『我が子ちゃんは世界にたった一人。他の誰かのようになって欲しいの?いや、そうじゃない』

と思ったと同時に、それは自分自身への言葉に変わった。

わたしも世界に一人しかいなくて、苦手なことがあって普通だし、苦手だからそこから逃げたいと思ったって良い。ずっと誰かに憧れて生きてきたけど、その誰かになれるわけでもないし、ならなくていい。
そう思ったら、良い意味で諦めがついた。“明らめる”と書くように、自分の気持ちを明らかにしてあげたことで、自分への思いやりも持てるようになった。
前よりもずっと自分を責めることは無くなった。これだけで、こんなにも精神が楽なのかと思った。

コツコツ努力しなければ、力はつかない


2024年の年が明け、どういうきっかけで、なんでITパスポートなのかはさっぱり忘れたけど、難易度もそんなに高くなさそうだし、ITって時代の潮流だし・・というまあ安直な思いつきで、ITパスポート試験の勉強を始めた。それでも、合格したらちょっと自分に自信がつくだろうなと思った。それに、育児と家事にどっぷりと身を捧げながら考えたのは、学ぼうと努力しなければ力はつかない、という当たり前のことだった。


“仕事以外のスキルを高めるという余裕なんてない”
“明確な目的もない”
“結局やらなくなるからお金の無駄!”

そう言い訳をして、ずっと休んでた。
心のどこかでは「やった方がいいよね」と思いながらも、学生時代まで勉強ずっと頑張ったし、もうここまででいいっか〜と。
でも、“やらなければできなくなる”、“努力した結果成功するか、実るかどうかもわからないけど、それでも努力し続けなければどんなキャリアでも、充実感は得られない気がする”
そんな“気がした”から、もう一度お尻を叩いてやってみようと思った。

スウェーデン人の友達主催のお花見に行った時に、日本語が話せないスウェーデン人が思った以上にたくさん来ていて。そうすると英語で会話を、となるのだけど、この時あまりにも話せなくなっていた自分にがっかりし、「英語もう一回やっぱり勉強しよう。自分のペースでいいから」と思い、ITパスポート試験を終えて、英語学習にとりかかった。

勉強という一つの努力を継続できるようになる、ことが当面の目標かもしれない。
でも、できるだけ早くキャリアにおける目標を持ちたい。



これまでずっと及び腰で、加えて片足はしっかり出して、逃げる態勢で仕事をしてきた。
いかに残業せずに終えるか。
いかにミニマムな労力で仕事をこなすか。

何かを成し遂げたい情熱もやりたいことも、持ってなかった。
今の部署で、わたしは5割くらいの力でしか働いてこなかった。自分にプレッシャーをかけて、心身をすり減らしたくなかった。仕事で身体を壊したくなかった。

健康が第一、なのは当然。それは今も変わらない。でも、それと一生懸命やらないのは違う。ようやくそれに気づいた。前の話に返るけど、決定的に足りなかったのは、“自分で決断する勇気”、と“他者からの評価を気にしない、自分の軸”だったと思う。


やりたいこと、やりがいのある仕事を持ちたい。
でもその前に働くということがどういうことか、理解しないといけない。骨の髄まで(笑)

仕事は自己実現の場ではないのだ。(by山田ズーニー)

目の前の仕事を責任を持ってやる。
正解かわからなくても、自分で決断を下せるようになる。

そういうただただ基本的な心構えができてなかったんだなあ、とようやくようやく気づく。でも、それは多分思っていた以上に、働くことが理不尽にまみれ、白黒つかないことは多く、結果がすぐに出ないということが受け入れられなかった自分の未熟さなんだと思うよ。(自分を認めてあげよう!)


とりあえず、まだほぼ働いてないワーママの健全たるぼやきですので、これから意志を強く持てるかが見どころですね!!(泣)
がんばれわたしー!




この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?