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森見節は体にくる
いま、森見登美彦のデビュー作『太陽の塔』を7年ぶりに読んでいる。週末に参加する読書会の課題本が『太陽の塔』なのである。
この本についてはいずれ語る機会があろうし、読んでいる途中で内容や感想を云々するつもりもないから、ここでは特に触れないでおく。ただ、この本を手に取ったことで起こった心身の変調については書き留めておかねばなるまい。
端的に言おう。脳がうるさくなったのである。
電車での移動中に『太陽の塔』を読む。乗換駅に着き、一旦本を鞄にしまう。そうして次の電車まで歩いていく間、頭の中をずっと言葉が流れているのである。決して本の内容を反芻しているわけではない。偶然目に飛び込んできた光景が、そのまま脳内で文章に変換されるのである。
——地下の連絡通路を歩いていると、踏切の音が聞こえてくる。カンカンカンカン、なかなか鳴り止む気配がない。まさか、向かう先の電車が出てしまったのではあるまいか。乗継に失敗した過去の記憶が蘇る。いつだってノホホンと歩いていたがために間に合わなかった。いや、間に合った時もノホホンとしていた気がするのだが。ともあれ、少し足を早めよう。そうして構内コンビニの角を過ぎると、なんだ電車はまだそこにいる。そうすると、あれは入線時の音だったのか。だがそれにしては車内に人が多い。——
だいたいこんな調子である。
これを読んで「まァ、見事な言語化能力!」などと感嘆する人とは、残念ながら友だちになれそうにない。ホームを歩いている間じゅうこんな言葉が頭の中を飛び交ってみなさい。疲れますよ。
挙句の果てに、エスカレーターで偶然前にいた女の人の髪飾りの形を描写しようとして、10秒も20秒も脳が騒ぎ立てる。おまけに上手く表現できないから、「なんだこれは、なんだこれは」という単語だけが、ひっきりなしに跳ね回る。たまったモンじゃない。
20代の頃は、頭の中で言葉をいじくり回すことがよくあった。時折珍しい言葉を思い出しては面白がっていたものである。しかし、30歳が近付く頃、脳の喧騒はぴたりと止んだ。その時になって、漸くと言うべきであろうが、「ああ、静けさとはこういうものなのか」としみじみ思った。
もしかしたら、昔の僕は、何かを理解するとは言葉で表現できるということだと思い込んでいて、自分の見聞きしたもの、記憶に留めたいことを、意識的に文章化していたのかもしれない。それができなかったら、世界を掴み損ねてしまう、世界から取り残されてしまうという不安や焦りがあったのかもしれない。——静けさを手に入れた後で、そんなことを思った。そして、この穏やかさを大切にすべきだと考えた。
それが『太陽の塔』をきっかけに、あっさり崩れてしまったのだから恐ろしい。
3秒間の厳正な審査の結果、どうもこれは『太陽の塔』の文体が原因だという答えに達した。
『太陽の塔』に限らず、森見登美彦作品、とりわけ華のない男子大学生の鬱屈と妄想を描いた「腐れ大学生もの」と呼ばれる作品群は、文体のクセが強いことで知られる。情報量が多く、単語がギュウギュウに詰め込まれた、それでいて澱みのない文章。言うなれば、具材たっぷりですぐお腹がいっぱいになるのに、味が良すぎるがゆえに無限に食べられてしまうカレーのようなものだ。そんなものがどんどん体に入ってくるのだ。正常を保っていられる方がどうかしていると言うべきだろう。
僕は今日、こんなものを書く予定ではなかった。最近ふと思い出した、今の自分にとって欠かせないと思える言葉の話をしようと思っていたのだ。しかし残念なことに、その話をする余裕はなくなってしまった。僕は今、頭の中を飛び回る軽率な言葉を追いやり、大切な言葉が飛び去るのを食い止めるので精一杯なのである。
『太陽の塔』には、主人公の男子大学生が恋敵(?)と醜い報復合戦を繰り広げた挙句、手痛い仕返しに遭って「おのれ!」と叫ぶシーンがある。ならば僕も言わせてもらおう。
おのれ!
だがこれは一方的な負け戦である。そもそも相手は戦ってすらいない。
(第263回 2024.12.17)