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読書ノート『人生の踏絵』(遠藤周作)~その①~

◆はじめに

 久しぶりに読書ノートをつけようと思う。今回取り上げるのは、遠藤周作の『人生の踏絵』という本である。

 この本は講演録であり、具体的には、『沈黙』『侍』『スキャンダル』という3作品の刊行に合わせて行われた講演と、「外国文学におけるキリスト教」をテーマにした6回にわたる連続講義の内容が収められている。

 それぞれの講演は時期にして最大20年離れているし、主題もバラバラである。しかし共通して語られていることもある。踏絵を踏む者と踏まざる者=信念を曲げる者と貫く者の対比、日本人とキリスト教、愛とは何か、悪と救いの関係——読者は本を読み進めるうち、これらのテーマに繰り返し触れることになるだろう。

 このように書くと、なんとも堅苦しい講演録のように思われるかもしれないが、実際には遠藤の語り口は非常に柔らかく、なおかつユーモアに富んでいる。この本の中には「会場笑」という注釈が何度も登場する。それは、各講演がとても温かい空気に包まれていたことをよく物語るものであろう。つまりこの本は、上に挙げたようなしっかりしたテーマに、肩肘張らずに触れることのできる、実に嬉しい一冊なのである。

 さらに、遠藤は講演の中で小説を書くという営みについて語ったり、連続講義で取り上げた文学作品の解釈を述べていたりする。作家が執筆について語る内容が興味深いのはもちろんのことだが、この本の面白いところは、作家の本の読み方が「これでもか」というくらい見られる点だろう。今回その詳細に立ち入る予定はないが、登場人物に対する理解の深さ、作品や場面のモチーフに対する知識の幅広さなど、読めば目を見張るにちがいない。

 ここまでの書きぶりからお察しいただけると思うが、『人生の踏絵』は僕にとって、推しどころたっぷりの一冊である。しかし、だからと言ってアレコレ書き込もうとすると、ノートが冗長になってしまうので、ポイントを絞りながら書き進めていくことにしよう。

◆1.ユーモラスな語り口

 今回は印象に残った内容の話をする前に、遠藤周作のユーモラスな語り口をみるところから始めよう。「はじめに」でも述べたように、この本に収められた講演録には、人間のありのままの姿に対する洞察や、キリスト教の考えに基づく人生との向き合い方などのテーマが繰り返し登場する。しかし、遠藤はそれらを難しい言葉で語ったり、厳粛な雰囲気の中で語ったりはしない。何度も冗談を交え、柔らかい雰囲気を作りながら、そこへスッと本題を差し込むように話を進めている。

 例えば、『沈黙』刊行記念の講演の途中、踏絵を踏むとはどういうことかを説明するくだりは、次のような具合である。

 イエス像が彫られた銅板の踏絵を踏むことは、今の私たちにとっては何でもないことでしょうが、当時のキリシタンにとっては自分の最も信じている人の顔、自分の最も美しいと思っている人の顔、自分が理想としている人の顔を踏むことです。例えば、あなたたちが自分の恋人の顔を踏めと言われたら、どういう気持ちがしますか。もし踏まなければ拷問して殺してしまうぞって言われたら、踏むんですか。僕なら女房の顔、踏みますけどね(会場笑)。

(『人生の踏絵』14頁)

 「僕なら女房の顔、踏みますけどね」という冗談で笑いを誘いながら、遠藤はすぐに要点へと話を移す。戦争中に理想とする信条や憧れる生き方を踏みつけなければならなかったという自身の経験に触れつつ、誰もが「自分の踏絵を踏んでいかないと生きていけない場合があるんです」(15頁)と語り出す。しかし、ここに冗談があるのとないのでは随分印象が違う。聞き手を強張らせないためだろう、遠藤は一瞬の笑いを入れるのである。

 講演中の冗談には、奥さんがよく登場する。上の引用のように踏みつけにされたり、悪者にされたりすることが少なくないが、美しい存在として持ち上げられることもある。中には、上げて落としているかのような複雑なパターンのものもある。以下に挙げる、愛と憐憫の違いについて例を挙げて説明しようとしたくだりは、そのひとつだ。

 長患いの女房を持つ男がいた、としましょう。幸か不幸か、私の女房はピンピンしているけどさ(会場笑)。お笑いになるけど、強い女房を持って、こっちが弱虫だと悲劇的ですよ(会場笑)。

(『人生の踏絵』188頁)

 ちなみに、この前に出てくる遠藤自身の弱虫エピソードも面白い。

 いつぞやも家族で寿司屋へ行きましたら、とつぜん地震がありまして、気がついたら私だけが箸と皿を握りしめて外へ逃げ出していた。地震はすぐおさまったので箸と皿を持って寿司屋に戻りますと、店中の者が笑っていて、家族だけがしょんぼりとうなだれておりました(会場笑)。

(『人生の踏絵』183頁)

 こうした冗談やエピソードが幾つも登場しながら話が進んでいく点に、この本に収められた講演録の味わいがある。終始真剣な調子の話もいいが、ユーモアを交えながら展開する深みのある話に触れると、単にいいと思うだけでなく、嬉しさに似た感情がこみあげてくる。もしかしたらそれは、ユーモアの中に、聞き手に対する思いやりがこもっているからなのかもしれない。

 ところで、これは余談であるが、講演録の中には、遠藤とお客さんとのやり取りが幾つか登場する。一番長いやり取りは、連続講義の2回目に登場する、指定文献を読んでいない参加者の多さに嘆く遠藤と、本屋に行ってもその文献がなかったと告げる受講生とのものである。ちなみに、その文献は遠藤自身が翻訳したものであり、受講生からどうしても手に入れられなかったと聞いた彼は、「僕の本、すぐに売れちゃうんでね」と言って笑いを誘っている。

 しかし、一番印象深いのは次に挙げるやり取りである。講演の途中、何やら書き付けている女性を見かけた遠藤は、話を中断して言葉を掛ける。

 お嬢さん、わざわざ鉛筆出して、私の言うことを書かなくていいからね。大したこと言ってるわけじゃない。え、私の言葉を書いてるんじゃないの? 私の講演に来ているのだから、他のこと書いちゃダメよ(会場笑)。

 はっきり言って、僕はこのお嬢さんやその場に居合わせた人たちが羨ましくてならない。

◆2.小説とは何か

 さて、茶目っ気たっぷりの語り口を幾つか見たところで、そろそろ講演の中身の方に話を移していこう。まずここでは、小説を書くことについて遠藤が語った内容を幾つか取り上げたい。

 『人生の踏絵』に収めされた最初の講演録は『沈黙』刊行記念のそれであるが、この講演は次の一文から始まっている。

 私は大説家ではなく小説家ですから、小さな説しか言えません。

(『人生の踏絵』7頁)

 初めてこの一文に触れた時は、言葉遊び的な謙遜の類だろうと思っていた。しかし後になって、この一文にはしっかり意味が籠っていたことがわかる。『沈黙』の内容に対して教会や信者から批判が相次いだことに触れた後で、遠藤は次のように述べている。

 小説というのは神学でも何でもありません。神学的な批判などを受けると、小説なんて無惨に砕け散ってしまうに決まっています。(中略)しかし私からすれば、今日も最初に申し上げたように、小説家は大説家ではない。

(『人生の踏絵』15~16頁)

 そして次のように続ける。

 われわれ小説家は、みなさんと同じように人生がわからないでいて、人生に対して結論を出すことができないから、手探りするようにして小説を書いていっているのです。人生に対して結論が出てしまい、迷いが去ってしまっているならば、われわれは小説を書く必要がない。小説家は迷いに迷っている人間なんです。暗闇の中で迷いながら、手探りで少しずつでも人生の謎に迫っていきたいと小説を書いているのです。

(『人生の踏絵』16頁)

 ここに挙げた一連の引用の中で、遠藤のいう〈大きな説〉に当たるのは神学である。神学に限らず「〇〇学」と名の付くものは、客観性・普遍性を目指す傾向を多少なりとも持っている。それらは広く当てはまる主張を提示し、我々の上に投げかける。

 小説は、或いは小説家の目指すものはそうではないと、遠藤は述べる。小説家は人生について迷いに迷っている。結論が出せないまま、手探りで歩みを進めている。迷いを抱えた人間は、声高に主張を叫ぶことはできない。ただ、自分は目下こう考えているということを書き留めるだけである。それは何よりもまず、書き手自身にとっての真実である。そしてその真実は、他の人にとっても真実であるとは限らない。当てはまる範囲の小さい、頼りない声。そういうものを指して、遠藤は「小さな説」と呼んだのだろう。

 しかし、小さな説は無力なのかといえば、そういうわけではあるまい。確かに、人生の正解は人によって異なるかもしれない。しかし、似た迷いを抱えている人は少なくないだろうし、そもそも迷いを抱えながら生きている人は多い。我々の前に現れて、迷いながら歩く姿を示してくれる存在は、実にありがたいものではないだろうか。小説家は、高みから主張を投げかけるのではなく、同じ地平を共に歩むことによって、小さな説をじわじわと伝播させていく。そんなイメージが僕の中には湧いてくる。

 僕はこれまでにも、信念を曲げてしまう弱き者の悲しみや苦しみを掬い上げようとしたり、人々の悲しみや苦しみに寄り添う永遠の同伴者を描こうとした遠藤周作という人について、「そのようなものを書き留めた人がいること自体が何より心強い」という趣旨のことを書いてきたが、ここでもまた同じような感情が滲み出すのを感じる。共に迷い、共に歩む存在としての小説家・遠藤周作、その作品を通じて、人生について考えてみたい——小説を書くことについての遠藤の語りは、作家の執筆論として単純に面白いというだけでなく、自分の先導者に巡り会えたような安心感をももたらすもののように、僕には思えたのだった。

 もう1箇所、小説に関する遠藤の語りを書き留めておきたい。外国文学におけるキリスト教をテーマにした連続講義の第1回において、遠藤はモーリヤックというフランスの作家の言葉を紹介しながら、小説の本来あるべき姿について語っている。それによると、小説において大事なのは「本当の人間を書く、嘘の心理は書かない」ことである(45頁)。

 さらに、ここから派生させて2つのことを指摘している。1つは、作中人物を小説家の操り人形にしてはいけない、作者の思惑から作中人物を自由にしなければならないということであり、もう1つは、人間の暗い部分・汚れた部分も直視して、そこへ手を突っ込まなくてはならないということである(44~46頁)。もっとも、作中人物に小説家の思惑を離れて歩かせるという点について、遠藤は「モーリヤックの言っていることは正しいのだけど、現場で小説を書いている人間にはきわめて難しいことでしてね」と語っている(44頁)。

 こちらの文章は僕にとって、書くことの難しさを痛感させるものだった。僕は作家ではないし、小説も書いていないけれど、一応noteを書いている人間として、良い文章にまつわる話には多少アンテナが伸びている。書く対象を自分にとって都合のいいように押し込めていないか、汚いもの・臭いものに蓋をしていないかという問いは、自分自身に確かに跳ね返って来た。

 取り分け、文章が書き手の意図を離れて自由に展開することがあるという話は、大学院にいた時から何度か聞いたことがある。後になってみると、どうして自分にそんなものが書けたのかわからないと思うものほど、出来の良い文章だと感じられるのだそうだ。この感覚を、僕はまだ味わったことがない。僕は自分の書くものを自分で統御できなくなることを、強く恐れているのだ——

 小説のあるべき姿を巡る話については、これ以上何かを書くことはできない。ただ、どこか引っ掛かる記述であったことは確かである。そういうものは、やはり読書ノートの中に留めておきたい。

◆     ◆     ◆

 さて、読書ノートはまだ予定していた内容の半分ほどであるが、話が長くなってきたので、ここで一旦記事を区切ろうと思う。冗長にしないと言ってテーマを絞ったつもりであったが、各テーマの記述内容が長くなってしまったのは迂闊であった。次回はさらに講演の内容に触れて、印象に残ったことを書き出していこうと思う。引き続き読みに来ていただければ幸いである。

(第261回 2024.12.12)


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